2009年9月3日木曜日

今日の想い 99

評論家諸氏の説明はその信仰を持たない者の立場からすれば尤もであろうし、説得力があるのかも知れない。誰であっても言葉を語る背後には人生観、価値観、信仰観がある。自分の観が絶対に正しいと思えばこその言葉として唾と一緒に吐き出してはいるが、どうも傲慢な在り様が表情、姿勢に突出していて嫌悪感を覚える。相手の観を重んじ、万が一自分に間違いがあれば指摘して欲しいと言った謙虚さを持ち合わせてこそ、聞くに値するものがあるとこちらも反応し、耳を傾けてみようかなとも思ったりする。それが全く無い。この世では信じる対象が百花繚乱で、それぞれ使う言葉が違う。言葉の意味するところが違うと言った方がいいかも知れない。その違う言葉の中に生きている訳だから、自分の信じるところを強くすれば強くするほど周りにすれば確信犯的危険な行動に見える。心に関する事柄を、自分の観としての秤で計算してああだこうだと言っても、肉体的には同じ次元で生きてはいるが内的にはそれぞれが違う世界で生きているので内的に届くことは無い。悟性的に理解させようとしても、悟性を超えた内的事柄を理論理屈でどうこう出来るものではないし、ましてや霊的な事柄を真っ向から否定した立場で理解させようとしても、語るのも聞くのも無駄と言うことだ。科学至上主義で、それでもそれなりに神仏を拝んでいるらしいが、それは宗教や信仰とは違いお互いが上手くやって行く為の方便に過ぎず、外的物質的なものだけに帰依して味気ない毎日を送っている。敢えて味気ないと言いたい。物に帰依して、人間関係に於いても物質人間の物質脳で作られる感情として遣り取りし、生きる為に食べるのではなく食べる為に生き(物質人間とはそう言うことだろう)、そして死を迎えて全ては消え去る。あまりにも味気ない。それが人間ぞと言われてそれでも生きたいと思うだろうか。物質人間なら生きる意味は全く無いだろう。死をすぐさま選ぶ方が懸命だ。評論家諸氏が滑らかに口が回るのは悟性魂の取り留めの無い思考に酔っているに過ぎない。自分が何なのか何処から来たのかと言う問いを発するのが今の人間存在であるけれど、それを自分に問うて見たことがないらしい。死と本気で向き合うことを避けているのだ。そんな意識に押さえ込まれた立場がどれ程悲しく可哀相であるか。牛や豚が言葉を覚えて喋っているようにしか見えない。

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