2009年9月15日火曜日

今日の想い 103

日常生活に埋没していると、何千何万という湧いては消える様々な思いが魂を去来しそれに翻弄され、肉体を持ちこの地上生活を送る為に、自分に向けてどれ程の犠牲が供えられているかその認識はない。生命活動を維持する為のそれぞれの器官系の働きにも、絶え間ない犠牲と奉仕が注がれ続けている。しかし生き続ける事が人間の存在意義ではなく、人間理想を成就することが願いである。その為に、父母となり師となり主人となって体に働き続ける存在がある。堕ちるところまで堕ちてしまった堕落した身に、昼夜を問わず人間理想を説き続け、励まし、奮い立たせる為に奉仕している存在がある。それが人間誰をも備えられた良心であることは兄弟の周知のところだが、その良心作用を働かせている存在を尋ねれば、神様に出会うことができる。、、、はずである。しかし多くの兄弟は神様を捉える事が出来ずにいる。尋ねるほどの切迫さが無いからだ。神様を捉えずしては一歩も前に進めないと言えるほどの切羽詰った状況に無いからだ。今日一日を生きて明日も同じ一日が続く。その繰り返しに埋没しながら惰性領域にうずくまり、そこから抜け出したいとは思わない。ある意味、神様は知らないけれど己が理想であれ欲望であれ突進する意志で乱暴に行動しながら、手に入れたいものを手にした満足感を味わい、或いは逆に貶められて死ぬほど悔しい思いを味わうように、生きてることの実感を魂に焼き付けている人間の方が、内的に目覚めたら神様に出会うのも早いかもしれない。我々の祈りにどれ程の心情が込められ、どれ程の切実さが伺えるだろうか。み言を目で追いながら、そこに魂を揺さぶるものを求めているだろうか。行動の中にどれだけの思い入れを投入しただろうか。神様、御父母様と口では求めるけれど、求めているものは何か違う別の存在かも知れない。或いは何も求めて居ないのかも知れない。そう思うと、本質に対して目覚める為に混沌の中に突き落とされることが我々に必要で、死を覚悟する位置でこそ成約聖徒の名を冠することが出来るのだろう。

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