2009年9月8日火曜日

今の混沌期を想う

政治経済を初めとする社会状況を見ても今が混乱期に入ったことは間違いないが、これから更に混乱の度も増すものと思われる。しかし摂理完遂の期日が近いのに、混乱期にあると言いながら周辺を見る限りはぬるま湯状態で、そんな今の状態でずるずると引き摺りながら天宙的期日を迎えるとはとても思えない。我々に関しても同じことが言え、2009年は困難な年であると言われてはいるが、天地創造の混沌状態から秩序が現れ初めて形となっていったように、2013年を迎える為の大きな混沌期を09、10年は通過する必要が摂理的にあると思う。今回の問題も避けて通ることは絶対に出来ないだろう。無難に収めようとする動きがあることも事実だが、摂理が要求するものが外的表面的な事柄に関するもので、我々の内面に負債として絶対信仰に反するものが在ろうが無かろうが、外的なものだけ整えればそれで事足りると思える、それをみ言を生命視する態度と言えるだろうか。我々の内面にある燻るものさえも敢えて公に白状、表明してでも正当的に対処し、内的霊的な領域で御父母様を支柱とする圏内に、負債を残す日陰の部分を残すべきではない。外的な目に見える場で御父母様の面子を立てる以上に、内的霊的な領域でこそ御父母様を証しすべきだと思う。そう言う意味で兄弟姉妹が一枚岩になっているとはとても思えない。責任ある者が兄弟に対して、み旨を御旗に不平不満を言わせず絶対服従を要求するとしても、み旨がみ旨として本当に立てられているのか、み旨が方便になっていないか、一つのやり方に固執してそれに服従させるのと、御父母様への絶対服従を同列で捉えていないか、責任ある者の判断は非常に大きく、全体信仰の是非が問われる。しかし摂理の別の視点から見るなら、周辺の誰もその歪な状況に対して敢えて触れようとはせず、相変わらず重荷を集中的に背負わせ続けるのを仕方の無いことだと、結果的に容認してしまったと言える。そう言った内部に於ける混沌期を通過しながら、必ず光が差し込まれるのを絶対的に信じ、一人一人が分別し、罪状を首にぶら下げて悔い改め、如何なる犠牲も厭わない意志を差し出す。そうしてこそ改めて御父母様に顔を向けることができる。

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