2009年9月27日日曜日

今日の想い 105

信仰がないとは言わない。しかし明らかに或る基準で止まっている。自分でラインを決めてしまって、それ以上の高い信仰内容を備えたいとの衝動がないとするなら、御父母様を慕い侍る意味は何なのか。自分なりの平安が取り戻されればそれで良しと思える発想は、良心から来るものなのかそれともサタンから来るものなのか。御父様は我々に何度も何度も尋ねられる。心と体が闘っているだろうと尋ねられる。そう尋ねられて自分は本当にそうであり、何とかこの闘いにケリを付けたいと堕落人間の恨みをまざまざと実感し、身悶えしている兄弟がどれだけいるだろう。自分という堕落実体がひとつの信仰基準を決めてしまっている状態で、心と体が闘っているなど思いも因らないことだろう。勝利された実体を目の前にしながら、御父母様と我々とは違うからという当たり前のような言い訳で自分を騙し、御父母様の高みに辿り着きたいという衝動は微かにも見出せない。自分という人間理想を掲げて、その理想への達成欲望こそ我々は内的な熱い熱い熱様相として、胸がはちきれんばかりの衝動を備えて当然なのに、外的な財産や名誉や権力への欲望さえも見出せなければ内的人間理想への願いも見出せない。この世の者達の方が外的な欲望を持ち合わせているだけ人間らしいと言えないだろうか。この世の者達がひとつの欲を実らせてもそれに満足できず、更なる大きな欲が溢れかえるという魂の乾きを経験しながら、自分の本当の願いは何だろうと問いを立て、内的な事柄に目覚める者もたくさんいる。そういう者達が御父母様を慕い侍る成約の群れを知り、見上げるものがあるとするなら、それは一体何だろう。それが無くて、御父母様を、真の家庭を証しすることはできない。我々は自分の魂を持たなければならない。今までは何が何だか解らないにも拘わらず歩んで来た。そう言った幼少期も必要だったろう。しかし未だに幼少期の状態であるならそれは御父母様に対する罪だと言えないだろうか。我々は力強い魂を育てなければならない。御父母様の願いを受け、打てば響く魂を持たなければならない。

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