2009年9月8日火曜日
韓国語を習得しよう
創世記から始まる旧約聖書原典はヘブライ語で記録されたものだ。それが紀元当時ギリシャ語に翻訳され、ギリシャ語聖書が様々な言語に翻訳された訳だが、新約はともかく旧約に関して言えば、翻訳で受け取る意味は原典の意味するところと大きく違う。はじめに神は天と地とを創造された。と、始まる創世記一章一節から、言葉を拾い受け取るイメージを追っていっても、創世記本来の呼び起こされる内容は想起できない。言葉が言霊の体であり、異なる言語にそれぞれの民族的本性が宿っている。ヘブライの民族的本性が語った旧約を、異なる言語で異なる民族的本性に語らせても、その意味するところは開示されない。ヘブライ語の精神を受け取った者が、その仕方でヘブライ語の原典を読み解く時、神様の創造過程が魂に蘇る。神様の創造起源からの内容を表記されたものを、創造過程のある段階から感覚的なものが創造されながら、感覚的な言葉表記で表されるはずが無い。その意味で、創世記は超感覚的なものを呼び起こさない限り、感覚的イメージ、科学的イメージとして想起されるものは全て空想に過ぎない。御父様が韓国語を学ぶようにと言われてから久しいが、韓国語で受け取り、韓国語で読み解いたみ言こそ、み言本来の意味するところを韓国語の民族的本性が語ってくれる。み言に宿る真の父母の本性を、別の言語で訳された形骸化されたものとして受け取っても、ある段階を超えて真の父母の圏内に入っていくことは出来ない。日本語が日本民族の本性の体であり、天照からの神々がその本性を日本語の中に現している。良くも悪くも、日本語に精通することは八百万の神々の本性をより受け取ることを意味しており、神道的霊が開示される。日本食口はみ言に沿った生活をしているようで、別の神道系霊界が働いて、成約にそぐわなかったり御父母様の香りや雰囲気とは違った生活在り様、意識在り様になる場合が多い。本当の意味に於いて御父母様を慕い、侍ろうと思えば、韓国語の習得は必須事項であることは間違いない。
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