2009年9月28日月曜日

分派を考える

分派が分派として異端視されるのは、袂を別ち自分の旗を掲げたからであり、み言の解釈が正しいだとか正しくないだとかは全く関係ない。部分部分に於いては或る意味正しい事を言っているのかも知れない。しかし幾ら正論をぶちまけるとしても、別れた以上分派は分派なのだ。夫婦がお互い遣り合って大喧嘩になるとしても、別れなければ夫婦は夫婦であり、どちらか家庭から飛び出した者が責めを負うのと同じことだ。袂を別つのに解釈の違いが本当の理由なのだろうかと不審に思う。何らかの感情的な摩擦が起こり飛び出し、解釈の違いに言い訳をすり替えながら当の本人ですら解釈によるものだと思い込んでいる節がある。分派サイトを見ながら、巧妙に隠された恨みが文面や小奇麗なデザインの背後に窺えないだろうか。別れた以上、御父母様に抵抗する霊存在が係わって来るし、それらの思いである抵抗感情が湧いてくる。わざわざ出かけて行って話を聞いた事はないが、言っていることに反論できないからといってそれが真実であり、新たにそこに信仰を賭けようと普通思うだろうか。そこになびいていく兄弟も、何らかの恨みや教会から逃げたいという負の意志を働かせて、情の拠り所を求めて向かっているに違いない。教会サイトで分派に注意を呼びかけるのは認めない意志を提示する意味で必要であるけれど、必要以上に喚起しながら振り回されることに頭を悩ましている様子を示すべきではないだろう。わざわざ分派に対する反論を持ち出さずとも御父母様に帰依している兄弟であれば、そんなことでなびくはずはない。自分も分派以上に好き放題書き綴っているけれど、一つ屋根の下にいればこそ言える訳で、反論でもされれば違う意見も聞いてみたいし、お叱りでも受ければ腹も立つだろうけれど、かと言って出て行くことなど思ってもみない。教会内にいろんな問題はある。全てが正しいとは思っていない。しかしそう言った事柄に私自身も責めを負っている。問題提示して異を唱えることは大切だが、問題ゆえに教会から出て行くなら御父様の願いに対する責任から逃げることなのだ。もし私が異端視扱いされて教会を出て行かざるを得ない状態になったなら、真っ赤なページ背景にどす黒いシャレコウベの旗でも掲げ、破れたマントをなびかせた私が血走った眼で、私こそがメシヤだとスクリーン一杯に書き付けるサイトを作りたい。悪を際立たせる事によって教会は善の位置を磐石にする。分派もそれぐらいの演出をすれば目立つだろうし、分派の存在意義がある。

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