2009年9月13日日曜日

基準を下げる

午後三時を回っていたけれど、テーブルは三つほど埋まっている。東向きの窓全部を見通せる中ほどのシートを案内された。メニューを渡されて軽く目を通しはしたが、最初からサーバーのお勧めを注文することに決めている。窓から自然の風景が見通せるレストランを前から探していたけれど、こんな時に出会えるとは思わなかった。高速を北上して30分は走っただろうか。道路脇の視界を遮るものが消え、山並みが広がるのを待って適当な出口を降りた。ファーストフードの看板に沿ってハンドルを回していたら真新しいショッピングセンターにあるイタリアンレストランに目が留まり、入ってみることにした。今まで一人でレストランに入った事は無い。朝から何も口にしておらず腹は減っていたが、別にレストランでなくても何処でも良かった。落ち着ける場所を探していた。とにかく抜け出したかった。生活の場から抜け出して気持ちの整理をして見たかった。そう言う以上、整理できない気持ちがある。悩んでみても、どうすることも出来ないことは何度も自分に言い聞かせたけれど、それでも悩む自分がいる。親が理想の実体になっていないのに子供に理想を押し付ける。この親あってこの子ありと、周りを見ればいとも容易く受け入れているが、こと自分の事となると理性は主管性を持たない。子供は、親である私の信じ願うものを押し付けられていると言う思いで心を満たしている。子供に取っての世界は親の世界とはずれている。僅かの共通項にしがみ付きながら家庭のタガをはめては来たが、一年、また一年と年を経る度に親としての言い分であるタガは緩んできた。朝の一言の頼み事に対して、帰ってきた返答に体の力が抜けてしまった。怒る気持ちでも出てきてくれれば救われたのだろうが、何の返す言葉も頭から消え失せた。子に対する気持ちの中に親としての執着がある。それは解っている。親として子供を心配すればするほど、親の執着は大きなものとなる。親の執着を自分への愛だと受け止める魂を、私の子は準備できていない。小さい時からのその準備こそが躾であり教育だと私は解っていたが、妻は解ってはいなかったと思う。何度かそれらしい事で言い合いもし、詰め寄ったこともあるけれど、理解はおろか夫婦の傷口は大きく深くなる。そのことを敢えて避け、為るがままに任せて今の状況にある。注文した料理で腹を満たし、風景を見ながらひと時を過ごす。浅い霧で僅かに霞んではいるが、見通しのいい風景を大きな窓枠に収められたまま内面に映し出す。自分の周りの現実を自分の内的在り様の映し出されたものであると言う事を、どうでもいい感情という装飾を洗い落としてそのままに受け取ることが必要なのだろう。そうして出来る事を一つ一つ積み上げていく。今、自分が為せる事は他にない。霞んだ風景は、自分の内面様相そのままを映し出している。悩みに対する答えの輪郭がはっきりしないまま、腰を上げ、生活に戻らないといけない。帰り際に声をかけられた。笑顔で挨拶されたら笑顔で返す以外ない。信じて接する事で、親への信頼も生まれるだろうか。

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