2009年9月25日金曜日

ルーシェルという霊的存在

ルーシェルが活動すべき領域は地上世界という感覚界ではなく、精霊が活動している感覚を超えた領域に留まるべきで、そこに於いてのみ発展させ培うべきものを、地上世界にまで引き入れてしまった。地上世界の感覚的意識では、ルーシェルの活動は人間の自己中心性、堕落性として引き入れたものしか認識することはできないが、地上界から霊界への領域、超感覚的領域に足を踏み入れれば、その地上世界への影響を及ぼす活動を捉える事が出来るはずだ。原理に記されているように、堕落の経路はルーシェルがエバを誘惑し、知恵がついたエバはアダムに向かう。ルーシェル存在は自我という独立性をその中心的性相として持っていた。ルーシェルが留まるべき霊的領域に於いて、自我としての独立性は魂を持った存在には必要で、その要素を持ちえてこそ一つの独立した魂として、死を迎えた肉体が土に返るような状況に魂が消え去ることはない。しかし問題はその性質をエバと交わる事でエバに渡し、エバがアダムと交わる事でアダムも受け継ぎ、本来地上には持ち込むべきではないその性質を携えたまま受肉してしまった。地上に於ける人間と言う魂の在り様は、一つ一つの肉体に宿りそれ自体が自我の独立性を備えている。その上に更なる独立性、強い自我感情を増し加えるなら、独立性を超えて自己中心的な在り様にならざるを得ない。既に独立性を備えられた人間としては地上生活に於いては逆へのベクトル、他の存在への帰依、他の存在への感情移入が魂の変化能力として必要なのだ。自己中心の愛という、愛する主体に根拠のある愛はルーシェルの影響下にあり、逆に為に生きる愛という、愛する対象に根拠を有する愛にはルーシェル的要素の入り込む余地はない。地上界に於いて自己中心的魂を強度にすれば、霊界に於いては自我の独立性は逆に弱まり魂は貧弱なものとなる。このように地上界と霊界とは、あたかも鏡がその境界に存在するように、逆説的在り様となって実在している。(あくまで私の主観であり、み言とは別物であることを付け加えておきます。)

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