2010年6月29日火曜日

今日の想い 186

愛と真の愛の違いは何だろうか。私の中に真の愛の概念が備わっているだろうか。真の愛を真の愛として受け取ることが出来る器を私は備えているのだろうか。真の愛が私に流れ込む前に何かで堰き止められているか、或いは私に受け取る器がない。そう言わざるを得ない。私に対する神様の理想があり、私の家庭に対する神様の理想もあるはずだ。私の理想が私に対する神様の理想と合い、、私の家庭への私の理想が神様の願う家庭の理想と合っているだろうか。神様の理想と私の理想が同じものであると言うことができるだろうか。夫として妻に対する理想があり、親として子に対する理想がある。妻のあるべき理想像を夫がそうあるべきだと決め付けてしまえば、妻に対する基準を夫として定めてしまうことになり、言葉のひとつひとつを相手は裁きとして受け取ってしまうだろう。子のあるべき理想像を親がそうあるべきだと決め付けてしまえば、子に対する基準を親が定めてしまうことになり、親から子への願いの言葉が押し付けとして取るかも知れない。言葉をかけても砂地に水をまくように何の反応も見られないなら、敢えて受け取るまいと心を閉ざしていると言うことだろう。私に取っては彼らに対する愛のつもりが、彼らに取っては愛を装った夫という名の、或いは親という名の自己中心的現れなのかも知れない。相手に言葉が響かず、相手が心を閉ざしたままならその言葉には愛がないと言うことだ。自分には愛がない。妻や子を包み込み流して与えてやる愛がない。神様に彼らを繋ぎ、喜びの世界に繋ぐ愛が無い。真の愛とは何だろう。私自身が本当に神様を愛し御父母様を慕っているなら、神様の愛が私に流れ御父母様の愛も私に流れてくるだろう。そうであるなら私から妻や子への愛も流れて当然なのだ。真の愛に関するみ言は星の数ほどあり、真の愛の言葉を目で追い口に出して読んでみても、未だに私には愛の器は備わってはいない。それでも彼らに対する想いを諦めきれず、何とか歯車を噛みあわせようと身悶えする姿の中に、唯一、神様から流れるものを見ることができる。

2010年6月26日土曜日

今日の想い 185

置いて行かれ、捨て去られたような、為す術の全く見えない現状を前にして途方にくれてしまうことがある。昨年も、そしてその前の年も、同じ問題を抱え同じように悩んでいたような、何か堂々巡りにはまり込んでいる様で、そこから抜け出せずにいる。仕方が無い、なるようにしかならないだろうと思うことの選択は許されないのだろうか。ではお前は責任分担の5%を全うしたのかと問う声が聞こえてくる。しかしどれ程頑張ったつもりでも、やるべきことは全てやりましたとは自分自身は言えないだろうし、私は全うしましたと言える人間が本当にいるとは思えない。私はこれだけ精誠を尽くし、5%を全うしたと誰かが口を開くなら、それは傲慢としか思えない。でも責任分担を全うするかどうか、したかどうかは自分の判断ではないのだろうか。ここまでの思考を辿りながら、私は重大な過ちを犯していることに気付く。責任分担と言う言葉を何か懲役でも課せられたように、自分の意志に反して行わなければならないものと決め付けている。ひとつのみ旨があって、み旨が私自身の願いでもあるなら、み旨の要求するものも当然の事として私の願いとしてあるべきなのだ。実りの果実は欲しいけれどその為の労は惜しむと言うなら、果実をその果実本来の意味するところとして受け取ろうとはしていない。その果実の為に労を惜しまず注ぎながら、その過程を通して、受け取る果実を果実以上のものにしていると言う期待を供えるべきだ。責任分担5%は私から見れば確かに100%の投入だ。まだまだ足りないと思いながら、もっと精誠を注ぐべきだし注ぎたいという意志を強くすべきなのだ。どれほど今までの道のりが長かったとしても、どれほど今の現状が情け無いにしても、それでも道半ばであるわけで先を憂いたり諦めたりすべきではない。現状が困難であれば困難であるほど、それ以上に実りへの期待感を膨らませるべきだろう。そう言えば昨日ひとりの同僚から声をかけられた。溜息をつく私に、今まで苦労を惜しまず生きてきたから明るい人生が開けているのが見えると言う。現状に押し潰されそうで引きつった暗い顔を曝していただろうに、どうしてこんな言葉を私にかけてきたのだろうと思った。でもその言葉によって乾き切った内面に清水が幾らか湧き出したように思えた。私は困難の只中にあっても神様に愛されている。無条件に愛されている。その自覚が持てれば重い足でも前に踏み出すことが出来る。

2010年6月24日木曜日

CHIMNEY ROCK #TWO


夏の間はチムニーロックの先端に人影の耐えることは無い。エレベーターが停止しているので諦める人も幾らかはいるだろうが、それでも入れ替わり立ち代り先端からの観望を臨みに来る。先端は丸みを帯びていて、端の方に足を伸ばせば低い簡単な柵があるのみで、そのまま滑り落ちてしまいそうな感覚を覚える。そう強いステップを踏まずとも水溜りを越すように軽く足を踏み出せば、そこは既に肉体に取っては生を超えた死の領域だ。足が竦む手前で座り込み、一寸先の死の領域に対面しながら魂に浮かび上がるものと対話する。日常生活の空間では味わうことの出来ない、根源からの問いかけが魂に浮かび上がってくる。座り込んだ背後には現世のざわつきが絶える事は無いが、心の波を鎮め意識を半歩先に持っていくことで、現世の捕らわれを抜け出てしがみ付くもののない世界に足を踏み入れる。そこは決して地上のような足場が用意されてはいない。足場のない世界で足場となるものを自分は用意できるだろうかと問うことになる。その問いかけから地上的なものを足場とするには無理があることを悟る。権力であったり持ち合わせている財産であったり、或いは計算的な人間関係であったり世渡りの要領であったり、そう言った類のもの全ては肉体を超えた世界では足場としては何の役にも立たないことを思い知る。霊界とはそう言う世界だろうと感情として認識できるし、自分はそう言う世界に携えていけるものに価値観を置いて生活しているだろうかと問い始める。その問いかけこそ本来の宇宙のエネルギーを受け取ることが出来る、宇宙のプラスに対するマイナス相対に立てるのであって、決してこの世的なものを受け取る場ではない。この世的なものを受け取れる場には間違いなく悪しき霊が携わっている。悪しき霊がこの世的なものと引き換えに最も大切なものを奪おうとしている。このチムニーロックはチムニー、即ち煙突を意味してはいるが、霊の本質を受け取る感性が備わった者であれば必ず生殖器の姿をそこに見るはずだ。この辺りがアメリカ大陸のへその位置にあり、そしてこのチムニーロックは明らかにアメリカ大陸のエネルギーが集められる避雷針であり生殖器だ。そう言う話をすると南にいる親しい友は冗談で男根信仰かと笑うけれど、アメリカに取っては生命の根源が渦巻く場がそこにある。先端に座りながら、イエス様が三大試練を受けられた位置に、次元としては低いながらも立たされることで、私の本質が根源に今一度強く繋げられて正しく生活することを正される。暫くして娘を促し降りて行ったが、登りルートを強いられたことで、精神の高みには半歩進むにも相当の精誠が要求されるけれど、降りていくことが容易いように、堕落し転がり落ちるのはあまりにも簡単だという単純なことを思わされた。パーキング場まで一気に降り、笑みの中にも待ちくたびれた表情を差し出す妻に合流した。

MOTHER

MOTHERという最近のドラマがある。初回は見ても、次回の視聴に繋がるドラマは滅多に無い中で、このドラマはぐいぐいと引き込まれるものがあった。内容の無いドラマが多いと言うことは、内容の無い表面的なものさえ繕えばそれで良しとする人生観が社会に蔓延しているということだろう。しかしこのドラマを回を重ねて見ながら、大袈裟かも知れないけれど母の国日本の息吹が、日本人の深層にはしっかりと流れているのが見えた思いがした。いろんな、それぞれの立場の母の強い想いが、見事な設定の中で描かれていて、全ての回の情景の中に母の想いの色とりどりの感情世界、心情世界が、視聴者である自分の母との思い出を踏み台にしながら広がっていく。脚本も、恐らく当人が自分が母から受け取った想いが込められていて、書き下ろしながら母の想いの中に生きながら涙が絶えることは無かったはずだ。母から子への想い、子から母への想い、そこにだけ光を当てて思想的なものも受け狙いも何も無い。視聴しながら涙を流した多くの人々は、枯渇した日本社会にもまだ母の愛、子の愛というオアシスが存在することに気付いたはずだ。少し深く考えて見ると、拉致監禁の問題も御子女様が気に止めて下さってやっと動き始めた。あまりの母の苦労に子が立ち上がったと言うことだろう。アメリカは長子の国ではあるけれど、どれだけ母の国日本に対しての想いがあるだろう。母の苦労と精誠でこそアメリカの摂理も続けてこられたにもかかわらず、しかしアメリカが犠牲になっても母を助けたいという教会の雰囲気も兄弟達の想いも私には感じられない。それが芽生えてこそ母は報われるはずだ。日本の犠牲や精誠の半分でもアメリカが果たすことが出来たなら、摂理は大きく進展していたと思うのは責任者をはじめ多くの食口の感じるところだ。しかし問題の本質はアメリカが母の国日本のアメリカへの想いを受け取ってはいないことだ。日本からアメリカに投入された事に対して、そこに母の想いを見て取ることはない。見れないのか、それとも最初から投入されたものに想い等無いのか、そうであれば本当に母として報われることはないし、これほど悲しいこともない。MOTHERを見ながら、アメリカに投入された母の想いが花を咲かせ実って欲しいと思ったし、誰でもないアメリカに歩む私がそれを為し遂げる使命を仰せつかっているはずだと思わされた。

CHIMNEY ROCK #ONE


エレベーターが作動していないので、上には階段を上って頂くことになります。サインのある入り口から山の中腹まで運転してきて、ドライブスルーの料金窓口でそう告げられ、一度は到底無理だろうと思って後ろに座っている妻に振り向き目配せしたけれど、娘とふたりで登ってきたらと言うので、料金を三人分払って取り合えず頂上のパーキングまで運転した。毎年、大抵夏の間一回はノースキャロライナの山間にあるここを訪れる。東西に長いノースキャロライナ州の西の端にあるアッシュビルと言う避暑地から、小一時間入ったところにそのお気に入りのポイントはある。東部アパラチア山脈にある、グレートスモーキーマウンテン、シェナンドア、両国立公園の中ほどに位置するが、差ほどメジャーな観光地ではない。訪れるアメリカンにその認識があるかどうかわからないが、今風に言うならパワースポットの一つと言った所だろう。しかし私に言わせればアメリカ大陸の中心的なエネルギー場であることは間違いない。三十年前、ノースキャロライナの州都の近くにレストランがあって、暫くそこで店長をしていた時は西の端のそこまで二時間近くかけて、小さい子供を連れてよく行っていたが、ここからだと優に八時間はかかる。往復で十六時間かけて行くことになるけれど、それ以上の価値はあると思っている。そう頻繁に行ける訳ではないが一年に一度は訪れたくなる。山頂に程近いパーキング場から上方に頭を巡らせば、大きな岩肌がせり出すように頂上に向かっている。岩肌に吸い付くようにギフトショップがあって、その横からエレベーター乗降口までの長い大きなトンネルが岩肌から掘られているが、トンネル内の照明も消され、入り口には浸入禁止のサインが無造作に置かれている。それが目に入ると一縷の期待も失せて、高さビル三十階に相当する登りルートを登ることを決意させられた。確かに少し考えれば、何の肉体的精神的犠牲も払わずにパワーを戴こうとするのは虫のいい話ではある。せめて汗をかいてこそ受け取れるものを受け取れるのであって、何の代価も払わずには、謙虚な受け取る姿勢すらも準備はされないだろう。そんなことを思いながら、妻をギフトショップに待たせて、娘と一緒に登り始めた。登りルートと言ってもほぼ垂直な岩肌に、見事に階段が頂上まで取り付けられている。そんな感心も最初の内で、そのうち心臓が破裂するほど息は上がり、汗は滝の如く、時折気が遠くなるほどで、今年二十歳の娘も最初は、何が悲しくて父親の尻を顔面にしながら登らないといけないのかと減らず口をたたいていたが、日頃運動をするでもなく殆ど私と同じような状態で後を付いて来た。二十分近く登って岩が大きく迫り出した最後の難関を越えると、眼前にチムニーロックがその威容を現して来た。星条旗がはためく頂上に辿り着くと眼下に広がる地上世界を見渡し、快い風に熱を帯びた身体を預けると、為し遂げた爽快感を岩清水のにように溢れさせてくれる。確かに精誠を尽くすに応じて、いやそれ以上に受け取れるものはあるのだ。何の苦も無くここに立って来たのと、そして今回と比べれば明らかな違いを認識することができる。

2010年6月21日月曜日

今日の想い 184

石ころや無機物の存在と、植物の違いは何かと尋ねる。植物も石ころと同じ様に鉱物元素で出来ている。石ころと違う植物として存在する為には、見えない生命体が存在していることがわかる。生命体の主管のもとで鉱物元素が組み立てられて植物様相を見せている。植物と動物の違いは何かと尋ねる。動物も同じ様に鉱物元素で身体を造られ、植物と同じ様に生命体がその生命活動を担っている。動物にあって植物にないものに、その本能的活動を挙げる事が出来る。人間とは次元の違う心魂ではあっても、それぞれの種類に応じた魂が働いている。それでは動物と人間の違いは何かと尋ねる。人間には植物に見る生命体も、動物に見られる本能的魂(肉身を担う魂)も存在するが、動物と異なるのは思考し感情し意志する独立した魂を持っていると言うことだ。そういう魂様相を現す自我が存在している。それが人間が人間足りうる謂れと言う事が出来る。このように地上世界という時間空間世界で階級的な様相として観察することができるように、時間空間を越えた霊界に於いても階級的なものを観察することが出来るはずだ。地上に於いて鉱物世界、植物世界、動物世界を自分の中に担い関わっている人間が鉱物や植物や動物をどう取り扱ったか、どう主管したか、或いは地上に於ける最上の階級存在として何を働いたかを霊界に於いて問われることになる。堕落したから自我としての認識も曖昧で、神様に直結し、ひとつの個性真理体として神様と一体不可分の自我存在だという意識も薄れ、成長過程のそれぞれの段階に関与している天使や更なる高次の霊的存在達とどう関わり、どう地上生活との関連で霊的実りを彼らにゆだねて来たかを問われているけれど、年を経てもそれもわからずに相変わらず肉の心を中心に生きている。地上で何を与えたかの意味は、霊界で何を受け取るかの意味と同じだ。与えたことはそのまま霊界で受け取るし、勿論悪意を持って仕打ちしたなら霊界に於いては相手の受けた痛みそのままを味わうべく仕打ちを受ける。万物の霊長として君臨しながら、万物に対して愛の主管が為されず自己中心的な支配に終るなら、霊界に於いては逆に支配される立場に立つ。人間としての位置を恐ろしくさえ思うようになれば、口にするものでも触れて関わるものでも、謙虚な姿勢で大切に扱うのは当然の事だ。御父様でさえ水資源を大切にされようと、トイレの水も流そうとはされない。

2010年6月20日日曜日

夏の暑さの中で、熱を考える

容赦ない直射熱が頭上から照りつける。アスファルトが焼け、陽炎が立ち上る。涼しさを覚えるのは朝方のほんの一瞬で、太陽が昇るや否や気温はうなぎのぼりだ。湿度の高さが地上を蒸し器状態にしてしまい、木々の緑もうな垂れている。風でも吹けば幾らか気も落ち着くだろうけれど、無風状態の中で太陽熱に曝されていると苛立ちさえ覚える。汗が吹き出るままで耐えていると、この状態が半日でも続けば恐らく気を病むに違いないと思ってしまう。この時期の太陽は戦闘的だ。直視できない太陽には明らかに強い意志を感じる。何かを焦熱で焼き尽くそうとしている。光が宇宙的な愛の表れであるなら熱は宇宙的な戦闘使命の表れだ。霊的太陽存在の闘士が地上に送り込まれる。或る存在に熱が極度に送り込まれれば、その存在は炎を上げて燃えて尽きる。しかし尽き果てたのではなく、熱と言う霊的闘士が存在を霊的な次元へ昇華させたのだ。熱と言う霊的闘士は新たな次元へ再生復活させる太陽の使者だ。私は夏の暑さに辟易しながらも、この暑さを内面に受け取ることで内的霊的に変革させられるものがあることを知っている。自分の中にあって主管できない魂の癖を矯正させられる。熱の外的な性質のみを観察し、内的霊的なものへ踏み込んで熱の霊的本質を尋ねないのなら、夏は暑いと言う認識のみで、夏の暑さが魂と霊に働きかけるものを見ることはできない。夏の間、地球に降り注がれる太陽熱は、光が届けられない個体的物質の内側へ浸透することで、地球生命体の内的流動、内的溶解を推し進める。様相を変革させられることで宇宙規模の再生準備が為されていく。科学万能を信じる現代人は、温暖化を議論しながら地表への関心に止めているけれど、地球内部に起こっている大変革に気付かないでいる。

2010年6月18日金曜日

今日の想い 183

テーブルの椅子に横向きに座りながら、私の前でポツリと言葉を落す。彼女に言わせれば、御父様は完成された存在であっても堕落した人間は完成することなど有り得ないらしい。その言葉は悟性が発した言葉ではなく、感情が発した言葉なのだろう。罪だ悔い改めだと、集会の度に口にされ耳にすることが、彼女にすれば居た堪れないのだ。肩を落して節目がちに力のない言葉がついて出たとき、この道が救いの道であり復活の道のはずが、彼女に取っては裁きの道であり疲れるだけの道と言った方が当たっているかも知れないと思った。彼女に取っては身体を病んでいる事が最もこたえていることは解っている。この忌まわしい重荷を背負わされた吐息に沈んでいることも私には見える。個人としての境遇をもし私が背負ったなら、周囲に当り散らしていたかも知れない。それほど彼女は気丈に振舞っている。家庭の家事は完璧にしているし、会計の仕事も税務署がお墨付きを与えたほどに頑張っている。私や子供の前では出来るだけ明るく振舞い、おそらく子供は母の病がそれほど深刻なものだとは思っていない。母に対して好き放題言っているということはそういうことなのだろう。私としては、その痛みや苦しみを家族の前に吐き出し泣き叫んでもいいと思うのだけれど、内面に全てを抱え込んで微塵も吐露することはない。彼女の落した言葉を受け取って、敢えては私は、堕落人間も必ず完成できると応えた。どんなに頑張っても天国には行けないという言葉に対して、頑張らなくても天国に行けると応えた。どれほど罪が多くても、頑張ろうが頑張るまいが、天国に直行する。御父様が私を子であると言い切っておられるのであれば、御父様が天国におられるのにどうして子供が地獄にいくことを仕方が無いと言われるだろうか。天国と言う御父様のもとにいるかいないかは誰の決定権でもなく私の選択なのだ。天国は我々がイメージし思うところの完成人間が行く所ではなく、御父様の子として御父様を慕う者が集まるところだ。天国が原理原則で測られその企画に合う者が入る所なら、それは天国ではなく裁きの場以外何物でもない。父子の心情因縁、真の愛は原理原則を超越する。

2010年6月16日水曜日

今日の想い 182

追い詰められてこそ、わかるものがある。追い詰められなければ自分の視界は一つの次元に留まったままでいる。追い詰められ、四方八方を塞がれて、もはや何処にも抜け道がないと覚悟した時、違う次元が見えてくる。天にゆだねると言う言葉は知ってはいるけれど、天にゆだねた事が無い。追い詰められ、覚悟した時、初めて天にゆだねようとしている。だから危機は成約聖徒に取って、願っても無いチャンスだと言うことができる。追い詰められた危機的状況で、違う次元への突破口が天にゆだねることで見えてくる。追い詰められてへとへとになりながら、息も絶え絶えの状況の中でこそ、神様も霊界も、そしてサタンも私の行動を注視している。神様がいつ手を差し伸べることが出来るのか、はらはらする想いで見ておられるし、サタンはサタンで地獄に引きずり込む機会をてぐすねひいて待ち構えている。霊的生命をかけた熾烈な戦いが私の中で繰り広げられる。その戦いは堕落以来休むことなく続けられてきた。普段は意識下に於いて為され自覚していないその戦いが、追い詰められた時に、私の意識に上ってきてその戦いを自覚することができる。戦いの修羅場の中で最後の最後の魂の力を振り絞る。それが思いもしなかった力を発し、次元の壁を突破して高次元へ突入していく。堕落人間としての様相に埋もれていた、重生式によって埋め込まれた真の父母から戴いたところの血統の根源が、その最後の魂の力に現れる。私の中に真の父母から戴いた真の父母に繋がる証しを見る瞬間だ。高い精神性を高次元で受け取れば修羅場で花を咲かせることが出来る。真の父母の様相を備えた復活した私は、真の愛の花を咲かせ真の愛の香りで、追い詰められた事情圏、環境圏を融解させていく。

愛の主管者となる為に

私はこの店を愛している。今ははっきりとそう言える。愛しているから店もそれなりのものを産み出してくれる。儲けを出して欲しいから愛するという打算的なものではないし、この店を愛しこの店に関わる従業員やお客も愛しているし、机や椅子や鍋や釜、厨房機器に至るまで全てを愛している。店に関わる霊的存在も勿論愛している。しかし、自然に情が行って愛せるようになった訳ではない。他の内輪の店がそうであるように、雇われ店長として人事でこの店を任された訳で、そうであれば一財産を費やして店の立ち上げをするほどの想い入れが最初からあった訳ではない。店にしろ会社にしろ、我が子の様に店や会社を可愛がって愛することが、唯一の商売の成功法と言えば言えるかもしれない。自分はこの店を愛するという意志を先ず強固にすべきだ。この店が上手く行こうが行くまいが、この店と心中する覚悟と決意を供えて、愛する意志を差し出すことだ。愛すると言う言葉を余りにも多く口にしてきたし触れてきた食口は、或る意味愛することの意味と重みを解っていない場合がある。口先だけの曖昧な”つもりの愛”ではなく、或る対象の為の愛の実体を実感する為には、先ず愛せるようになる為の基台が必要なのだ。愛せるようになる為には対象の為に祈らなければならない。祈ることが出来れば愛せるようになるのだけれど、祈りが先ずそう簡単に出来るものではない。出来ない祈りが出来るようになるためには、祈りが出来る為の基盤が必要になる。その基盤として汗を流す行動条件を立てる必要があるのだ。要するに復帰摂理の為の復帰基台摂理と言う様に、愛することが私の血の在り様となる為には、涙の祈りが必要であり、涙の祈りの為には汗を流す行動条件が必要になる。そういった段階をある期間踏んで初めて、私がその対象を愛していると言えるし霊界が公認する愛の主管者となることができる。

2010年6月15日火曜日

信仰基台を考える

自分の事情圏を他と比べながら、自分にはあれが無いこれが無いと言う。自分に与えられている在る事には目を向けないくせに、無い事ばかりを主張する。与えられていないと言う不満を内面に保持したままで、意識がそこに釘付けされれば、不満は益々膨らんでいく。自分の置かれている百万の霊的事情圏がありながらも、霊的に或る地点に立ち止まったままで、灰色様相の不満の事情圏一つだけしか見えてはいない。一つ上にステップアップし、その位置から見れば、随分風景は変わるのに、或る地点に立ち止まり頭を巡らす事すらしない。確かに背負っているものもあり、事情圏はそう簡単には変わらないかも知れない。事情圏は直ぐには変わらないとしても、自分の態度は変える気さえあれば直ぐにも変えられる。私達には信仰がある。親なる神様を信じて疑わない。しかし厳密に言えば信じて疑わないつもりでいるだけなのだ。つもりの信仰から絶対信仰に持っていくべきだが、絶対信仰への意志を働かせるには多くの障壁が立ち塞がっている。その障壁をひとつひとつ越えていかなければならない。必然的に戦いが生じる。絶対信仰への道は戦いを避けては一歩ですら前進できない。自分の身体の事情にしろ外的環境にしろ、改善し発展させようと思えば、まだ見ぬ希望的未来を確信することが唯一それを手にすることができる。外的手段は結果として見た時に良き選択だったと言えるだけであって、願いを叶えるのに手段に溺れてしまえば本末転倒になる。自分の願いが天の願いと一致するなら、それは叶えられて至極当然なのだ。願いを叶える為には外的な事柄をどうこうするより、天の情を動かし霊界が働かざるを得ない状況に持っていく。人間の信念は移ろいやすいものだから、信じて行おうとするのではなく行って信じたことにする必要がある。信仰基台とはそういうもので、行うことで信じたことになり、ここまでして信じたんだと自分が自分に納得し感動すらするまで持っていく。自分が自分を納得し感動すれば、それが実は天の情を動かしたことなのだ。そして霊界は待っていたように働き始める。自分の内面の動きをよくよく観察すれば、いろんな形で不信の芽が出てくるのがわかる。不信の芽を一つ一つ摘んでいくには、信仰基台という行動を掲げ、絶対信仰の自分像として仰ぎ見ながらひとつになることで不信の芽を摘むことができる。ヨシュアを導いた契約の箱を掲げ、ヨルダン河に入っていくと河の水が分かれたように、信仰基台という行動条件を掲げて、不信の河を越えていくのだ。

2010年6月13日日曜日

今日の想い 181

現代人の多くは、五感が感知する感覚世界に生きることに重心を完全に移して生活している。死と共に霧散してしまう感覚世界と言う幻影にすがりつき、全てを賭けて生きているけれど、情の世界(心情の世界)に重心を置いて生きてこそ人間として生きたと言う事ができる。親の情が子に向かい、子の情が親に向かう情の世界に生きれば、視覚を通して受け取る色彩は死んでいる色彩だと言えるほどに、情の世界は色合いを濃くし活き活きとしてくるはずだけれど、現状を見届ける限り子供は親の私からは心情世界を知って踏み込んではいない。堕落世界は感覚世界こそが主体であり、情の世界は添え物程度にしか扱われず、そこに住む堕落人間もサタンに主管されて感覚至上主義を掲げて生きている。終末のこの世は感覚至上主義の成果を見事にも成し遂げ、多種多様なドラッグや同性愛近親相姦など、感覚の欲求をとことん追及した結果をそういう結実として生活に混入している。感覚世界を極めればそうなって当然なのだ。行き着くとこまで行って始めて、自分が本質的に求めてきたものは感覚要求を満たすことではなく、それは見えない或る存在に実は操られ仕向けられていたと言う事に気付く。祝福家庭に取って子女の生活環境が堕落世界であるということは切実な問題だ。どれほど情に訴えようにも、感覚感性が芽を出し発達する思春期の過程に於いては感覚要求の方にどうしても吸い寄せられてしまう。心情世界に目覚めた者でなければ、感覚世界がより刺激的であり魅力的に映るだろう。祝福子女が天の愛と天の生命と天の血統を引き継いだ自覚を持たせる為に、親としては何としても心情世界に子供を導いて行かなければならない。その為には親としての私の行動言動全てが心情世界を基にしており、即ち愛の衝動としての行動であり言動でなければならない。そうであれば喜怒哀楽の表現は自ずと強くなるはずだ。火が出るほど怒り、涙をはらはらと流して親としての哀切を訴え、喜ぶ時は強く抱擁して喜びを伝え、楽しい時は思い切り笑う。私が心情世界の色合いをしっかり表現してこそ子供を導いていくことが出来る。実は親の私としても心情の世界に完全に重心を移してはおらず、その表れとして喜怒哀楽は薄く子への想いも頼りないと思う。真の父母の心情に立って子供に接してこなかった結実を今刈り取っている。十二時を回って未だ帰宅しない子供を待ちながら、親の痛みを味わっている。今はこの痛みを有難く戴き味わうことしかできない。今は親の痛みを強くすることでしか子供が帰ってくる心情基盤は作れない。

2010年6月12日土曜日

癒し

弾力に富んだ枝葉は、風が吹くに任せて上に下に揺らいでいる。木々が多いこの辺りを俯瞰的に見るなら、緑の絨毯が風の這うままに広々と波打っていることだろう。緑が波打つように、海の青も風に揺れている。風に揺れて波打ち際を押しては引いている。地球生命体の皮膚である地表は、夏の間は風に撫でられて熱を飛ばし、揺らぎに任せて癒される。廃棄された多くの排出物を風の揺らぎの中で分解される。人間が暑い夏の間は汗をかくことで体内毒素を排出しているように、地球も熱によって排出している。人間が汗をかく夏の間は腎臓をいくらか休めるように、地球の浄化機能もその活動を抑えている。地球に取って冷たい冬の時代が長かった為に、浄化機能は本来あるべき様相からは衰えていると言える。地球生命体自体が、私の妻の様に腎臓病を患っていると言うことができる。存在物の固体化様相が強まると、存在を維持させる為には浄化機能を強くさせないと、流動性のない個体は生気を失いやすく脆く崩れ去る。北極の氷が溶解すればその分地球全体の流動化は進み、押し込まれた浄化作用が本来の機能として起こってくる。固体化していた原因的宇宙様相が、真の愛によって流動化してきている。そのような内的宇宙様相の現われとして、地球の温暖化や氷を溶かしている。腎臓病を患う者は身体が硬直化し、骨は脆く肌は乾燥する。喉の乾きを覚えるままに水分を取ろうにも、砂漠のような身体はそれを保持できない。身体の流動化を促そうと思えば、自分の魂様相を柔軟にする必要がある。頑なな内面様相を流動化させる必要がある。御父様が全てを許され全てを祝福されようとされる今、頑なな魂自体が実はそれを固辞しようとしている。自分も許さないけれど他者も許そうとはしない。目の奥の光るヤイバを取り除き、硬く閉じて開こうとしないその唇を優しく撫でてあげ柔らかくすべきだ。自分に嵌めた枷を取り除き、風に揺らぐ緑を揺らぎとして自分の内面に共鳴させ、たゆたう波にリズムを合わせ戯れる柔らかい光に身を委ねるべきだ。癒しはそう言う形で訪れるものだと思う。

2010年6月11日金曜日

万物主管

私の周囲に様々な環境圏が広がっている。外的な自然が、私を包み込む環境圏として広がっている。外界に広がる自然を見る限りに於いてはそこに堕落的なものを見ることは無い。自然の中に、直接的に悪が吹き込まれていることは無い。しかし自然が自然として活き活きとその本来の在り様を呈しているかというと、外界に広がる自然は嘆息していると言う事ができる。主管してくれる存在を見出すことが出来ないでいる。神様の神性を帯びて、万物は万物としてのそれぞれの特異な魂の様相を繰り広げるべきなのに、自然の法則性にのみ主管された、魂を抜き取られた形骸化した自然が環境圏としてそこにある。ロマ八章に記されているように、被造物全体が今に至るまで共に呻き共に産みの苦しみを続けているのだ。本来の在るべき魂様相を失ってしまい、生きているようだが実は死んでしまった内的霊的な抜け殻としての魂を携えている人間達は、万物との本来の係わり方を知らないでいる。食べる為に生きているかのように、肉を満たし自分に安楽な自然環境とする為に万物を主管し治めようとしている。愛が作用しないのならば主管とは言えないだろう。万物は、彼らを愛し主管してくれる存在を求めている。神様が人間に魂を吹き込まれたように、万物は人間が魂を吹き込んでくれるのを心待ちに待ってきたのだ。しかしながら堕落した人間にその力は失せている。彼らの前に佇んだままで為す術を知らない自分の不甲斐なさを、涙が出るほどに感じ取らなければならない。不憫な我が子を前に肩を抱くしかない親の気持ちを、万物を前にして感情として覚えるべきなのだ。現代科学をして自然を制覇できるかのような錯覚に捕らわれたまま、科学万能な現代社会を誇りに思っているようだが、その思い上がりを挫くに十分すぎる自然万物の大反乱が起こり得る。その時初めて万物を主管するということがどういうことなのか、その時やっと本当の意味に目覚めるようでは遅すぎる。

涙を流した時

涙を流した時。可愛がっていた猫が死んだ時。学校から帰ったら、飼っていた猫がトラックに轢かれて死んだと告げられて、仏壇にお参りをして、その夜布団を被って泣いた。嗚咽を抑えて泣いた後、胸の中が空っぽになってすうすう風が吹き込んだ。涙が流れた時。学校で父を笑いものにしているのを聞いた時。みんなは軽い冗談のつもりだったろうけれど、聞いていない振りをしてその横を通り過ぎていって校舎の陰で涙を流した。泣いてはいないはずだと思ったのに、涙がスーッと流れ落ちた。私の中で、誇りに思っていた父が一変に貶められて小さな父に変わってしまった。そして弟と遊んでいて怪我をさせた時。手首にひびが入ったようで、痛みで弟は一日中泣いていた。照れくさくて謝る言葉は出なかったが、涙の乾いた後を顔に残しながらやっと弟が寝付いた時、家族のみんなも寝たのを確認して、寝入った弟の前で手を合わせて何度も何度も詫びを入れながら涙を流した。それから祖父が病気で寝付いた時。夜中に何度も厠に向かい、腹に何も無いのに戻し続けていた。ぜいぜいしながら短い息が暫く続いていた。襖を隔てた隣の部屋で私は布団の上に上体を起こし、祖父の苦しそうな呼吸が止むまでひたすら祈り続けた。治まると、どうして祖父がこんな目に合わなければならないのかを誰に問うでもなく尋ね、恨みを含んだ怒りの涙が暗闇に見開いた目から溢れ出た。悲しい時、辛い時、悔いて申し訳ない時、そして遣り切れない時、涙はそういう時しか流れないと思っていた。感動して涙を流すことなど有り得ないと思っていた。そんな涙に満ちた暗い人生がずっと続いていくのだと思っていた頃、友達に誘われてみ言を聞いた。親である神様が存在することを知らされても、私に対する神様は別様の存在だと思っていた。小雨に濡れながら下宿に帰る時、小雨の一粒一粒に現れて、子を想い焦がれる心情そのもので包み込む神様を体験した。小雨に身体を湿らされながらも、熱い涙が止め処も無く流れ出る体験だった。こんな包み込まれるような感情の中で流れる涙があることを、その時私は始めて知った。その時からだ。心の琴線に少しでも触れれば幾らでも涙が流れ出る。限度を遥かに超えるほど魂には水分が含まれていて、更に後から後から湧き出でてくるようで、私の魂は乾くことを知らない。

2010年6月8日火曜日

今日の想い 180

現代の教育の場面を考えてみた時に、子供達が外界への興味を内面で熟成されないうちに、知識を闇雲に押し付け詰め込ませる。産まれたひなが餌を食べる力がついてから親鳥が餌を与えるように、子供達の内面に外界に対する学習熱が起こって初めて知識は与えられなければならない。現代社会では、内面の熟成が為される前に、ある意味成熟させないように勉強させているとも言えるのだ。外的な真理の表面をなぞらえるだけでその深みに入って尋ねようとは思いもしない。記憶することのみに精神力を使い、学習した真理に分け入って創造する力を引き出すことは無い。私達が学んでいる内的な真理についても同じ事が言える。み言の表面をなぞらえるだけで、み言が生きて私の魂に訴え、及ぼす力を受け取るだけの内的成熟に至ってはいない。そうであれば私の頑なな魂はもっと打ち砕かれ、もっと試練に晒されなければならないだろう。深く思考し、広く感情し、高く意志する魂、あらゆる真理を吸収する柔軟な魂として生気を帯びなければならない。私が思考しうる限界線を越えるよう手引きされ、宇宙に流れる心情に共鳴し、ひとつの個性真理体としての創造使命への強い衝動が、鼓動として張り裂けるほど胸を打つ。そんなように人間の本質を蘇生させ、まさしく万物の霊長と言える存在であるべきなのに、なんとちっぽけな魂様相であろうか。祝福家庭が聞いて呆れ、情けないにもほどがある。私の魂はこの身体に収まるどころか、拳ほどの大きささえない。この地球を包み込み、大宇宙を駆け巡る程の魂であるべきなのだ。み言の訓読をしながらも、背を向けたままのみ言を追い続けることに重々しさを覚え、支える右手が震えている。

たまに思い出したように基準を下げる

感謝してもしてもし尽くせない立場だと言うことは、よくよくわかっている。それでも心に隙間風が吹き、減少感を覚えてしまう。宛がわれた不運のひとつひとつを数え始める。数えながらも感情では既に生まれついた不運を嘆き神様への不満を表している。落ち着いて少し安堵すると忽ちに、足るを知る心を失い、周りを外的な面でのみ判断してしまい、自分が埋もれている貧相な生活に溜息をつき落ち込んでしまう。望むべきものは別にあるのに、眼が曇ってしまって些細であっても煌びやかな生活と言う幻を追い始めている。二十年以上もこの半地下にあるアパートの一室に住み続けてきた。毎年家賃は上がり続けて入居した当初の倍にまでなってしまった。店のオフィス兼用で使っているため、積み上げられた書類の箱に占領されて倉庫さながらの状態だ。暮れかかる一瞬だけ西日が差し込むだけの、日がな暗いこの部屋で妻は病を患った。この部屋が原因の主なものだとは思わないけれど、それでもこの部屋が恨めしい。リースがそろそろ切れるので、今年こそは運勢のある新居に移れれば移りたいと思った。住宅バブルがはじけた時が移り時だとこの時を待ったが、どういう訳かこの辺りは下がる気配はない。ローンの審査も厳しく、まとまった頭金も必要だ。今の手持ちでは無理だとわかった。わかったけれど、上気していた気持ちを落ち着け整理するのに時間を要している。外的なことを言えば、私自身は何処だって構わない。ただ殆どの時間をここで過ごす妻を思うと、陰ったこの部屋に埋もれて生気を失い、夢や希望の言葉の意味すらわからなくなった生活から彼女を救ってやりたかった。剥くんだ足をさすり続けている妻の、移る話をした時の一瞬の明るい表情を裏切りたくは無かった。明日の朝には今日の憂いが払拭され、朝日のような笑顔で出発しますと挨拶し、今日の一日を締めくくった。

2010年6月7日月曜日

今日の想い 179

こう言ったらみ言に対する私の理解を根本から疑われかねないけれど、敢えて言うと人類始祖が堕落しなくとも戦いは起こり得る。個人から家庭、社会や国家、全ての段階に於いて本然の世界であれば一つの闘いも無いなど有り得ないと思っている。ある主体が対象とひとつになって新たな神様の対象体となるとき、そこにはひとつとなろうとする為に主体の意志も必要であり、対象の意志も必要だ。一つになる為には投入すべきものが主体と対象の責任に於いて為されなければならない。一つになることを回避するなら戦いは起こらないけれど、一つになろうとすれば戦いは起こり得る。事実、宇宙生成過程に於いて数限りない戦いが生じているはずだ。宇宙生成のあらゆる段階に於けるあい反発する二極が、戦いを乗り越えひとつになれたからこそ一秒の狂いも無い宇宙様相は存在しているのであり、戦いを乗り越える意志が働き、勝利した実りを我々が住まう宇宙に見ている。もしアダムとエバが堕落せずに長男、次男が生まれたとしても、彼らが何の意志も起こさずに一体化できるかというと、それはないはずだ。堕落していなくとも一つになる為には心血を注いでこそ一つになれる。自動的に一つになれるなら責任分担と言う言葉は出てこないはずだ。カインアベルで問題視されたのは、カインアベル間で戦いがあったことではなく、殺戮行為が結果として行われたことにある。横にそれるが原理にもしっかりと殺戮と書いてある。殺戮と言う以上、おびただしい数の殺人行為を意味するのだが、カインとアベルそれぞれが一個体のみであればその表現はおかしい。しかし敢えて殺戮と書いてあるのは意味があるはずだと思っている。物語そのままにイメージするのは正しくないことはここでも言える。本筋に戻るが、戦いが大きければ大きいほど、一体化されれば爆発的な創造力が生じる。本然の世界であれば、どちらが善でどちらが悪ということではないにしても、カインはカインで真の父母アダムとエバに対する想い入れがあり、アベルはアベルでまた違う角度からの想い入れが真の父母に対してあるはずだ。どちらも真の父母への想い入れは間違っていないし、そして強いのだ。違うそれらが戦いを乗り越えながら一つになった時、真の父母はかつてない喜びを覚え、一体化されることで発揮される愛の力も創造力も計り知れないものとなる。

2010年6月5日土曜日

今日の想い 178

特攻隊で散っていった英霊達がそこにいる。主君に忠義を尽くして腹を割った侍がそこにいる。迫害の中で殉教していったクリスチャン達がそこにいる。霊となって私の周りを囲み、私の歩みを見つめている。中心に対して進言のひとつも言えなくて、躊躇したまま今の一歩を踏み出すことが出来なくて、彼らの信任を得るどころか言い訳さえもできないだろう。彼らを恐れて行動に出るのではなく、彼らが認める気概が私に備わっているかどうかだ。彼らと同等に渡り合え、説き伏せるほどの決意と覚悟を供えているかどうかだ。様々な分野で歴史に名を残した多くの者達は、群がる霊達の讒訴を超える決意と覚悟をもって、霊達が屈服せざるを得なかったから協助を得ることが出来、名を残すまでになった。半世紀も生きていれば、自分に屈服する霊がどういう基準であり、自分に讒訴する霊がどういった類の霊なのか、自ずと理解して当然だ。五十を過ぎてそれさえも霊的に把握できないなら余程意識は暗く、未だ眠りから覚めてはいない。霊界を制するものがこの世を制する。様々な問題が立ち塞がる時、明らかにその背後に霊達がいる。その問題を私に提示することを許された霊達が私にその問題を仕組んでいる。霊と対峙し、霊の試練に勝利しなければならない。試練を乗り越えれば、その霊達が屈服し、霊達が引き連れる霊の軍団が私の配下に治まる。その手続きを踏みながら霊的階級を上っていくのだ。祝福家庭である、成約聖徒であるといきがってみても、周りを囲む霊達はせせら笑うだけだろう。確かに私達はある霊雲の加護を受けてはいる。しかしそこに安住して動かなければ私達の内的霊的成長は止まり、逆に堕ち始める。私を讒訴する霊の声を、魂に痛みを覚えるほどに受け止めなければならない。真摯に受け止めてこそ初めて悔い改めることができる。

今日の想い 177

悔い改めろと言われて悔い改めに至ることなど有り得ないと思っている。いろんな内外の問題に対して我々に信仰が無いからだと片付け中心の立場から指摘したとしても、それぞれの内的路程は違う訳で、結局は何もわからなくて他に言い様が無いので信仰が足りないと言って誤魔化しているに過ぎない。後天時代に於ける組織の在り様、中心とその配下にある者との関係は、旧態依然の状態をそのまま引き摺るべきではないし、それは崩れ去るものと思っている。配下にある者が信仰を立て、証しを立てることができるように支えることが大切であって、上からの眼線で吐く言葉に創造の余地は無く、それこそぺんぺん草も生えない。下は下で訳もわからず頷くべきでもない。上に立つ者が全てを理解している訳でもなく、配下にある者が無知の権化でもない。上から指示を受けて発動する完全受動型は、知らぬ間に完全依存型になってしまった。自己否定のつもりが自己責任までも否定してしまっている。私達が本当の信仰に目覚めるのはこれからなのだ。本来なら成約の摂理はキリスト教基盤の上に為されるはずであった。しかしそれが失敗してしまった為に御父様は一端底まで下り、無念の再出発をせざるを得なかった。その過程で集められたのがゲリラ要員の我々だ。天国は三年で出来ると言われて、その天国が何かも知らずホイホイ付いて来た我々はゲリラ的な活動を為してきた。無知のままにここまで来たと言っても間違ってはいない。無知でありながらもその価値もわからない者に対して御父様は祝福を授けて下さった。ゲリラ要員を子として認めてくださった。そう言った我々が本当の信仰に目覚めた時、本当の意味で御父様を支えることが出来る。信仰を立てているつもり、悔い改めているつもり、み旨をなしているつもり、そこに神霊は届かないし働かない。目覚めた者だけが後天開闢時代を生き、霊界を動員し、真の父母と共に新しい国を建設することができる。信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することだ。虚ろな意識で、私が何を望んでいるかさえも曖昧で、信仰云々などとは言えない。

今日の想い 176

私達は夢を持っているだろうか。夢があるならそれを叶えることに真剣だろうか。献身生活に始まった私達の信仰路程は全てを捨て、否定するところから始まった。若者に取ってのその意味は、親を捨て夢を捨てることだ。捨てるほどの大層なものではないにしても、それでも本人にすれば人生を賭けて犠牲を供えた。しかし多くの者が四半世紀を超えて歩んで来たそれぞれの路程を振り返りながら、先行きの方が短い今となっては、半ば諦め半ば妥協して黄昏色に染まる残された人生を見つめている。御父様について行こうとはしているけれど、それは殆ど惰性的なものに近い。私達を見られながら、お父様の口をついて出てくる、”疲れている”状態にある。御父様と共にみ旨の為に身を挺して来たのなら、御父様が勝利して勝ち取られた喜びに同参して疲れることはないはずだけれど、それでも疲れているのは我知らず別のものを期待していて、それを得ることが出来ないでいることに消沈しているのだ。では別のものとは何だろうか。それは願いの成就だ。人間として生きるとは、別の言い方をすると明日に向かって前進することだ。み言を知ろうが知るまいが、生きるとは明日に繋げることだ。明日からその又明日へ繋いでいこうとするなら希望を持ち続けなければならない。それが単に息を繋ぐことが希望である重病患者であれ、どんな状況にあるどんな人であっても希望を持ち続けない限り死を選ぶしかない。希望として捉え、その願いの達成をはっきりと私の中に衝動熱としてあることを確認しない限り、”疲れている”状態は”死んでいる”状態に落されていく。どんなに些細な希望であれ、どんなに小さな夢であってもそれが達成されることで復活していくのだ。御父様の高次の喜びに同参できない自分を、反省はしても失望すべきではない。段階を落していったとしても、それが二次的三次的であっても、み旨に繋がる限りは善しとすべきであり、落ちるとこまで落ちたとしても将来的自分がみ旨を為せるように今は明日の食事が希望であるとするならそれでも希望をはっきりさせないよりはいい。大金持ちになることが悪とは言えない。大金持ちになることで証しを立てることを夢とし、それを信仰を賭けて達成するなら疲れている誰かよりは神様が共におられるはずだ。すべてを否定してきた我々が希望的な明日を期待できなければ、それは御父様に泣きつき、御父様を非難し、お父様から慰めを得ようとしているのであり、そうではなくて希望を繋ぎ夢を大きくしながら、逆に御父様に刺激を与える存在であってこそ私の息子であり娘だと誇らしく思われるはずだ。

2010年6月4日金曜日

今日の想い 175

現代人は永遠に対する正しい概念を持たない。死が私の終わりであるとする者は永遠性を完全に否定しているし、死後の世界を信じる者に取っては死を超えて永生すると信じて疑わないにしても、それでは地上に産まれていない産まれるまでの状態があることを信じることが出来るか言うと首を傾げる。産まれるまでの状態があることを信じないのであれば、人間は半永久存在であって時間軸の前方にも後方にも永遠的な存在であるとは言えない。人間が半永久存在であるなら、生まれる前の過去から引き摺るものは有り得ないはずであるけれど、実際は生まれながらにして過去から引き継ぐ多くのものを背負っている。因縁を背負い、晴らすべき蕩減を負っている。しかし過去への責任が無いにも拘らず、蕩減という言葉は使えないはずだ。蕩減をボランティアとして、本来背負うべきものでは無いけれど歴史貢献として奉仕的に受け取っている等とは誰も言わないだろう。人間が地上の生を終えて死を迎え、死を終りではなく変化として捉えることが出来るように、地上生への誕生も地上生以前の状態からの変化と捉えることが出来る。原理では、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされるとある。しかしこの言葉から地上生以前の状態を否定することを導き出すことはできない。私の地上生以前の状態を肉身や霊人体とは言えないからだ。血統という概念の中にこそ生に対する永遠性が存在していると思う。私という存在の根源的なものが血統の中に流れていて、地上生への誕生で私の根源的なものが受肉され、更に死の扉を開いたら成長した霊人体に受霊される。私が存在することの永遠性を血統の中に見ることができれば、先祖をどこまでも遡って人間始祖に私自身を見ることができるように、私が真の父母に接木されることで、逆ルートで真の父母の血筋を刻印していく事が出来る。それが先祖祝福の意味だろう。私という現在点から過去へも未来へも伸び続ける永遠性を踏まえればこそ、時間を超越することができる。

2010年6月2日水曜日

聖書について

聖書を私達はどう捉えたらいいのだろうか。天地創造からの事柄が記されていて、現代人が読み進める時に時間軸を追いながらイメージとして現れるものを内面に描写している。それ以外、どう読み進めるのかと問われそうだが、そういう捉え方だと外部から内面に提示し、問いかけてはいるにしても、自分の内面に直接的に係わることとして捉えてはいない。それだけでは聖書の全ての記載事項は自分の外の物語に過ぎないのであって、例えそこから教訓を得るとしても、基本的に天地創造からの流れと今存在する自分とは別様に捉えている。外から何かの情報が与えられると言う認識だけであれば、私の内面に立って外を眺めているにすぎないのだ。聖書を読み進めながら聖書という物語を眺めているだけだ。私が小宇宙であるという認識は、外的な在り様に留まらず内面に於ける在り様こそ宇宙そのものだと言えなければならない。太陽としての良心が燦々と輝き、内面の秩序を保とうとしている。内面に次々と生じる葛藤は、良心という私の太陽存在を中心として回っている内面を構成する惑星存在の、その正しい軌道を狂わそうとしている状態だと言える。自分の内面を宇宙として生きていると言う事が出来るようになれば、聖書が宇宙存在の内面様相を描いたものでであると言えるし、自分の内面様相とも完全にリンクしていることが分かってくる。それに関して堕落人間が最も理解しやすいことと言えば失楽園に関することだろう。内面に蛇に相当する感情や思考や意志として発動するものが明らかにある。堕落的なそれらの魂活動を内的太陽存在の良心で照らし出し主管しようとすれば、即ち逃げずに真正面から対すれば、私の内面で堕落の動機や経路が如実に見えてくる。そしてその内的な様相が生殖器に表現される。御父様が話されるように、男性のそれは首をもたげた毒蛇であり、女性のそれは口を開けて飲み込もうとする毒蛇だ。そのように私の内面様相を正確に把握していけば、殺戮行為を為したカインの部分も見えるだろうし、百二十年の信仰を供えたノアから受け継いだものも見える。よって聖書は歴史の結実体である私を書き記したものでもある。聖書に尋ねることで、私という存在の深淵の根源的なものを見届けようとしている。私が勝利して解放されることが即ち歴史が勝利して解放されることなのだ。