2010年6月7日月曜日

今日の想い 179

こう言ったらみ言に対する私の理解を根本から疑われかねないけれど、敢えて言うと人類始祖が堕落しなくとも戦いは起こり得る。個人から家庭、社会や国家、全ての段階に於いて本然の世界であれば一つの闘いも無いなど有り得ないと思っている。ある主体が対象とひとつになって新たな神様の対象体となるとき、そこにはひとつとなろうとする為に主体の意志も必要であり、対象の意志も必要だ。一つになる為には投入すべきものが主体と対象の責任に於いて為されなければならない。一つになることを回避するなら戦いは起こらないけれど、一つになろうとすれば戦いは起こり得る。事実、宇宙生成過程に於いて数限りない戦いが生じているはずだ。宇宙生成のあらゆる段階に於けるあい反発する二極が、戦いを乗り越えひとつになれたからこそ一秒の狂いも無い宇宙様相は存在しているのであり、戦いを乗り越える意志が働き、勝利した実りを我々が住まう宇宙に見ている。もしアダムとエバが堕落せずに長男、次男が生まれたとしても、彼らが何の意志も起こさずに一体化できるかというと、それはないはずだ。堕落していなくとも一つになる為には心血を注いでこそ一つになれる。自動的に一つになれるなら責任分担と言う言葉は出てこないはずだ。カインアベルで問題視されたのは、カインアベル間で戦いがあったことではなく、殺戮行為が結果として行われたことにある。横にそれるが原理にもしっかりと殺戮と書いてある。殺戮と言う以上、おびただしい数の殺人行為を意味するのだが、カインとアベルそれぞれが一個体のみであればその表現はおかしい。しかし敢えて殺戮と書いてあるのは意味があるはずだと思っている。物語そのままにイメージするのは正しくないことはここでも言える。本筋に戻るが、戦いが大きければ大きいほど、一体化されれば爆発的な創造力が生じる。本然の世界であれば、どちらが善でどちらが悪ということではないにしても、カインはカインで真の父母アダムとエバに対する想い入れがあり、アベルはアベルでまた違う角度からの想い入れが真の父母に対してあるはずだ。どちらも真の父母への想い入れは間違っていないし、そして強いのだ。違うそれらが戦いを乗り越えながら一つになった時、真の父母はかつてない喜びを覚え、一体化されることで発揮される愛の力も創造力も計り知れないものとなる。

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