2010年6月4日金曜日

今日の想い 175

現代人は永遠に対する正しい概念を持たない。死が私の終わりであるとする者は永遠性を完全に否定しているし、死後の世界を信じる者に取っては死を超えて永生すると信じて疑わないにしても、それでは地上に産まれていない産まれるまでの状態があることを信じることが出来るか言うと首を傾げる。産まれるまでの状態があることを信じないのであれば、人間は半永久存在であって時間軸の前方にも後方にも永遠的な存在であるとは言えない。人間が半永久存在であるなら、生まれる前の過去から引き摺るものは有り得ないはずであるけれど、実際は生まれながらにして過去から引き継ぐ多くのものを背負っている。因縁を背負い、晴らすべき蕩減を負っている。しかし過去への責任が無いにも拘らず、蕩減という言葉は使えないはずだ。蕩減をボランティアとして、本来背負うべきものでは無いけれど歴史貢献として奉仕的に受け取っている等とは誰も言わないだろう。人間が地上の生を終えて死を迎え、死を終りではなく変化として捉えることが出来るように、地上生への誕生も地上生以前の状態からの変化と捉えることが出来る。原理では、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされるとある。しかしこの言葉から地上生以前の状態を否定することを導き出すことはできない。私の地上生以前の状態を肉身や霊人体とは言えないからだ。血統という概念の中にこそ生に対する永遠性が存在していると思う。私という存在の根源的なものが血統の中に流れていて、地上生への誕生で私の根源的なものが受肉され、更に死の扉を開いたら成長した霊人体に受霊される。私が存在することの永遠性を血統の中に見ることができれば、先祖をどこまでも遡って人間始祖に私自身を見ることができるように、私が真の父母に接木されることで、逆ルートで真の父母の血筋を刻印していく事が出来る。それが先祖祝福の意味だろう。私という現在点から過去へも未来へも伸び続ける永遠性を踏まえればこそ、時間を超越することができる。

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