2010年6月5日土曜日
今日の想い 176
私達は夢を持っているだろうか。夢があるならそれを叶えることに真剣だろうか。献身生活に始まった私達の信仰路程は全てを捨て、否定するところから始まった。若者に取ってのその意味は、親を捨て夢を捨てることだ。捨てるほどの大層なものではないにしても、それでも本人にすれば人生を賭けて犠牲を供えた。しかし多くの者が四半世紀を超えて歩んで来たそれぞれの路程を振り返りながら、先行きの方が短い今となっては、半ば諦め半ば妥協して黄昏色に染まる残された人生を見つめている。御父様について行こうとはしているけれど、それは殆ど惰性的なものに近い。私達を見られながら、お父様の口をついて出てくる、”疲れている”状態にある。御父様と共にみ旨の為に身を挺して来たのなら、御父様が勝利して勝ち取られた喜びに同参して疲れることはないはずだけれど、それでも疲れているのは我知らず別のものを期待していて、それを得ることが出来ないでいることに消沈しているのだ。では別のものとは何だろうか。それは願いの成就だ。人間として生きるとは、別の言い方をすると明日に向かって前進することだ。み言を知ろうが知るまいが、生きるとは明日に繋げることだ。明日からその又明日へ繋いでいこうとするなら希望を持ち続けなければならない。それが単に息を繋ぐことが希望である重病患者であれ、どんな状況にあるどんな人であっても希望を持ち続けない限り死を選ぶしかない。希望として捉え、その願いの達成をはっきりと私の中に衝動熱としてあることを確認しない限り、”疲れている”状態は”死んでいる”状態に落されていく。どんなに些細な希望であれ、どんなに小さな夢であってもそれが達成されることで復活していくのだ。御父様の高次の喜びに同参できない自分を、反省はしても失望すべきではない。段階を落していったとしても、それが二次的三次的であっても、み旨に繋がる限りは善しとすべきであり、落ちるとこまで落ちたとしても将来的自分がみ旨を為せるように今は明日の食事が希望であるとするならそれでも希望をはっきりさせないよりはいい。大金持ちになることが悪とは言えない。大金持ちになることで証しを立てることを夢とし、それを信仰を賭けて達成するなら疲れている誰かよりは神様が共におられるはずだ。すべてを否定してきた我々が希望的な明日を期待できなければ、それは御父様に泣きつき、御父様を非難し、お父様から慰めを得ようとしているのであり、そうではなくて希望を繋ぎ夢を大きくしながら、逆に御父様に刺激を与える存在であってこそ私の息子であり娘だと誇らしく思われるはずだ。
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