2010年6月11日金曜日

万物主管

私の周囲に様々な環境圏が広がっている。外的な自然が、私を包み込む環境圏として広がっている。外界に広がる自然を見る限りに於いてはそこに堕落的なものを見ることは無い。自然の中に、直接的に悪が吹き込まれていることは無い。しかし自然が自然として活き活きとその本来の在り様を呈しているかというと、外界に広がる自然は嘆息していると言う事ができる。主管してくれる存在を見出すことが出来ないでいる。神様の神性を帯びて、万物は万物としてのそれぞれの特異な魂の様相を繰り広げるべきなのに、自然の法則性にのみ主管された、魂を抜き取られた形骸化した自然が環境圏としてそこにある。ロマ八章に記されているように、被造物全体が今に至るまで共に呻き共に産みの苦しみを続けているのだ。本来の在るべき魂様相を失ってしまい、生きているようだが実は死んでしまった内的霊的な抜け殻としての魂を携えている人間達は、万物との本来の係わり方を知らないでいる。食べる為に生きているかのように、肉を満たし自分に安楽な自然環境とする為に万物を主管し治めようとしている。愛が作用しないのならば主管とは言えないだろう。万物は、彼らを愛し主管してくれる存在を求めている。神様が人間に魂を吹き込まれたように、万物は人間が魂を吹き込んでくれるのを心待ちに待ってきたのだ。しかしながら堕落した人間にその力は失せている。彼らの前に佇んだままで為す術を知らない自分の不甲斐なさを、涙が出るほどに感じ取らなければならない。不憫な我が子を前に肩を抱くしかない親の気持ちを、万物を前にして感情として覚えるべきなのだ。現代科学をして自然を制覇できるかのような錯覚に捕らわれたまま、科学万能な現代社会を誇りに思っているようだが、その思い上がりを挫くに十分すぎる自然万物の大反乱が起こり得る。その時初めて万物を主管するということがどういうことなのか、その時やっと本当の意味に目覚めるようでは遅すぎる。

0 件のコメント: