2010年6月26日土曜日

今日の想い 185

置いて行かれ、捨て去られたような、為す術の全く見えない現状を前にして途方にくれてしまうことがある。昨年も、そしてその前の年も、同じ問題を抱え同じように悩んでいたような、何か堂々巡りにはまり込んでいる様で、そこから抜け出せずにいる。仕方が無い、なるようにしかならないだろうと思うことの選択は許されないのだろうか。ではお前は責任分担の5%を全うしたのかと問う声が聞こえてくる。しかしどれ程頑張ったつもりでも、やるべきことは全てやりましたとは自分自身は言えないだろうし、私は全うしましたと言える人間が本当にいるとは思えない。私はこれだけ精誠を尽くし、5%を全うしたと誰かが口を開くなら、それは傲慢としか思えない。でも責任分担を全うするかどうか、したかどうかは自分の判断ではないのだろうか。ここまでの思考を辿りながら、私は重大な過ちを犯していることに気付く。責任分担と言う言葉を何か懲役でも課せられたように、自分の意志に反して行わなければならないものと決め付けている。ひとつのみ旨があって、み旨が私自身の願いでもあるなら、み旨の要求するものも当然の事として私の願いとしてあるべきなのだ。実りの果実は欲しいけれどその為の労は惜しむと言うなら、果実をその果実本来の意味するところとして受け取ろうとはしていない。その果実の為に労を惜しまず注ぎながら、その過程を通して、受け取る果実を果実以上のものにしていると言う期待を供えるべきだ。責任分担5%は私から見れば確かに100%の投入だ。まだまだ足りないと思いながら、もっと精誠を注ぐべきだし注ぎたいという意志を強くすべきなのだ。どれほど今までの道のりが長かったとしても、どれほど今の現状が情け無いにしても、それでも道半ばであるわけで先を憂いたり諦めたりすべきではない。現状が困難であれば困難であるほど、それ以上に実りへの期待感を膨らませるべきだろう。そう言えば昨日ひとりの同僚から声をかけられた。溜息をつく私に、今まで苦労を惜しまず生きてきたから明るい人生が開けているのが見えると言う。現状に押し潰されそうで引きつった暗い顔を曝していただろうに、どうしてこんな言葉を私にかけてきたのだろうと思った。でもその言葉によって乾き切った内面に清水が幾らか湧き出したように思えた。私は困難の只中にあっても神様に愛されている。無条件に愛されている。その自覚が持てれば重い足でも前に踏み出すことが出来る。

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