2010年6月18日金曜日
今日の想い 183
テーブルの椅子に横向きに座りながら、私の前でポツリと言葉を落す。彼女に言わせれば、御父様は完成された存在であっても堕落した人間は完成することなど有り得ないらしい。その言葉は悟性が発した言葉ではなく、感情が発した言葉なのだろう。罪だ悔い改めだと、集会の度に口にされ耳にすることが、彼女にすれば居た堪れないのだ。肩を落して節目がちに力のない言葉がついて出たとき、この道が救いの道であり復活の道のはずが、彼女に取っては裁きの道であり疲れるだけの道と言った方が当たっているかも知れないと思った。彼女に取っては身体を病んでいる事が最もこたえていることは解っている。この忌まわしい重荷を背負わされた吐息に沈んでいることも私には見える。個人としての境遇をもし私が背負ったなら、周囲に当り散らしていたかも知れない。それほど彼女は気丈に振舞っている。家庭の家事は完璧にしているし、会計の仕事も税務署がお墨付きを与えたほどに頑張っている。私や子供の前では出来るだけ明るく振舞い、おそらく子供は母の病がそれほど深刻なものだとは思っていない。母に対して好き放題言っているということはそういうことなのだろう。私としては、その痛みや苦しみを家族の前に吐き出し泣き叫んでもいいと思うのだけれど、内面に全てを抱え込んで微塵も吐露することはない。彼女の落した言葉を受け取って、敢えては私は、堕落人間も必ず完成できると応えた。どんなに頑張っても天国には行けないという言葉に対して、頑張らなくても天国に行けると応えた。どれほど罪が多くても、頑張ろうが頑張るまいが、天国に直行する。御父様が私を子であると言い切っておられるのであれば、御父様が天国におられるのにどうして子供が地獄にいくことを仕方が無いと言われるだろうか。天国と言う御父様のもとにいるかいないかは誰の決定権でもなく私の選択なのだ。天国は我々がイメージし思うところの完成人間が行く所ではなく、御父様の子として御父様を慕う者が集まるところだ。天国が原理原則で測られその企画に合う者が入る所なら、それは天国ではなく裁きの場以外何物でもない。父子の心情因縁、真の愛は原理原則を超越する。
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