2010年6月13日日曜日
今日の想い 181
現代人の多くは、五感が感知する感覚世界に生きることに重心を完全に移して生活している。死と共に霧散してしまう感覚世界と言う幻影にすがりつき、全てを賭けて生きているけれど、情の世界(心情の世界)に重心を置いて生きてこそ人間として生きたと言う事ができる。親の情が子に向かい、子の情が親に向かう情の世界に生きれば、視覚を通して受け取る色彩は死んでいる色彩だと言えるほどに、情の世界は色合いを濃くし活き活きとしてくるはずだけれど、現状を見届ける限り子供は親の私からは心情世界を知って踏み込んではいない。堕落世界は感覚世界こそが主体であり、情の世界は添え物程度にしか扱われず、そこに住む堕落人間もサタンに主管されて感覚至上主義を掲げて生きている。終末のこの世は感覚至上主義の成果を見事にも成し遂げ、多種多様なドラッグや同性愛近親相姦など、感覚の欲求をとことん追及した結果をそういう結実として生活に混入している。感覚世界を極めればそうなって当然なのだ。行き着くとこまで行って始めて、自分が本質的に求めてきたものは感覚要求を満たすことではなく、それは見えない或る存在に実は操られ仕向けられていたと言う事に気付く。祝福家庭に取って子女の生活環境が堕落世界であるということは切実な問題だ。どれほど情に訴えようにも、感覚感性が芽を出し発達する思春期の過程に於いては感覚要求の方にどうしても吸い寄せられてしまう。心情世界に目覚めた者でなければ、感覚世界がより刺激的であり魅力的に映るだろう。祝福子女が天の愛と天の生命と天の血統を引き継いだ自覚を持たせる為に、親としては何としても心情世界に子供を導いて行かなければならない。その為には親としての私の行動言動全てが心情世界を基にしており、即ち愛の衝動としての行動であり言動でなければならない。そうであれば喜怒哀楽の表現は自ずと強くなるはずだ。火が出るほど怒り、涙をはらはらと流して親としての哀切を訴え、喜ぶ時は強く抱擁して喜びを伝え、楽しい時は思い切り笑う。私が心情世界の色合いをしっかり表現してこそ子供を導いていくことが出来る。実は親の私としても心情の世界に完全に重心を移してはおらず、その表れとして喜怒哀楽は薄く子への想いも頼りないと思う。真の父母の心情に立って子供に接してこなかった結実を今刈り取っている。十二時を回って未だ帰宅しない子供を待ちながら、親の痛みを味わっている。今はこの痛みを有難く戴き味わうことしかできない。今は親の痛みを強くすることでしか子供が帰ってくる心情基盤は作れない。
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