2010年6月29日火曜日

今日の想い 186

愛と真の愛の違いは何だろうか。私の中に真の愛の概念が備わっているだろうか。真の愛を真の愛として受け取ることが出来る器を私は備えているのだろうか。真の愛が私に流れ込む前に何かで堰き止められているか、或いは私に受け取る器がない。そう言わざるを得ない。私に対する神様の理想があり、私の家庭に対する神様の理想もあるはずだ。私の理想が私に対する神様の理想と合い、、私の家庭への私の理想が神様の願う家庭の理想と合っているだろうか。神様の理想と私の理想が同じものであると言うことができるだろうか。夫として妻に対する理想があり、親として子に対する理想がある。妻のあるべき理想像を夫がそうあるべきだと決め付けてしまえば、妻に対する基準を夫として定めてしまうことになり、言葉のひとつひとつを相手は裁きとして受け取ってしまうだろう。子のあるべき理想像を親がそうあるべきだと決め付けてしまえば、子に対する基準を親が定めてしまうことになり、親から子への願いの言葉が押し付けとして取るかも知れない。言葉をかけても砂地に水をまくように何の反応も見られないなら、敢えて受け取るまいと心を閉ざしていると言うことだろう。私に取っては彼らに対する愛のつもりが、彼らに取っては愛を装った夫という名の、或いは親という名の自己中心的現れなのかも知れない。相手に言葉が響かず、相手が心を閉ざしたままならその言葉には愛がないと言うことだ。自分には愛がない。妻や子を包み込み流して与えてやる愛がない。神様に彼らを繋ぎ、喜びの世界に繋ぐ愛が無い。真の愛とは何だろう。私自身が本当に神様を愛し御父母様を慕っているなら、神様の愛が私に流れ御父母様の愛も私に流れてくるだろう。そうであるなら私から妻や子への愛も流れて当然なのだ。真の愛に関するみ言は星の数ほどあり、真の愛の言葉を目で追い口に出して読んでみても、未だに私には愛の器は備わってはいない。それでも彼らに対する想いを諦めきれず、何とか歯車を噛みあわせようと身悶えする姿の中に、唯一、神様から流れるものを見ることができる。

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