2010年6月5日土曜日

今日の想い 177

悔い改めろと言われて悔い改めに至ることなど有り得ないと思っている。いろんな内外の問題に対して我々に信仰が無いからだと片付け中心の立場から指摘したとしても、それぞれの内的路程は違う訳で、結局は何もわからなくて他に言い様が無いので信仰が足りないと言って誤魔化しているに過ぎない。後天時代に於ける組織の在り様、中心とその配下にある者との関係は、旧態依然の状態をそのまま引き摺るべきではないし、それは崩れ去るものと思っている。配下にある者が信仰を立て、証しを立てることができるように支えることが大切であって、上からの眼線で吐く言葉に創造の余地は無く、それこそぺんぺん草も生えない。下は下で訳もわからず頷くべきでもない。上に立つ者が全てを理解している訳でもなく、配下にある者が無知の権化でもない。上から指示を受けて発動する完全受動型は、知らぬ間に完全依存型になってしまった。自己否定のつもりが自己責任までも否定してしまっている。私達が本当の信仰に目覚めるのはこれからなのだ。本来なら成約の摂理はキリスト教基盤の上に為されるはずであった。しかしそれが失敗してしまった為に御父様は一端底まで下り、無念の再出発をせざるを得なかった。その過程で集められたのがゲリラ要員の我々だ。天国は三年で出来ると言われて、その天国が何かも知らずホイホイ付いて来た我々はゲリラ的な活動を為してきた。無知のままにここまで来たと言っても間違ってはいない。無知でありながらもその価値もわからない者に対して御父様は祝福を授けて下さった。ゲリラ要員を子として認めてくださった。そう言った我々が本当の信仰に目覚めた時、本当の意味で御父様を支えることが出来る。信仰を立てているつもり、悔い改めているつもり、み旨をなしているつもり、そこに神霊は届かないし働かない。目覚めた者だけが後天開闢時代を生き、霊界を動員し、真の父母と共に新しい国を建設することができる。信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することだ。虚ろな意識で、私が何を望んでいるかさえも曖昧で、信仰云々などとは言えない。

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