2010年6月8日火曜日

今日の想い 180

現代の教育の場面を考えてみた時に、子供達が外界への興味を内面で熟成されないうちに、知識を闇雲に押し付け詰め込ませる。産まれたひなが餌を食べる力がついてから親鳥が餌を与えるように、子供達の内面に外界に対する学習熱が起こって初めて知識は与えられなければならない。現代社会では、内面の熟成が為される前に、ある意味成熟させないように勉強させているとも言えるのだ。外的な真理の表面をなぞらえるだけでその深みに入って尋ねようとは思いもしない。記憶することのみに精神力を使い、学習した真理に分け入って創造する力を引き出すことは無い。私達が学んでいる内的な真理についても同じ事が言える。み言の表面をなぞらえるだけで、み言が生きて私の魂に訴え、及ぼす力を受け取るだけの内的成熟に至ってはいない。そうであれば私の頑なな魂はもっと打ち砕かれ、もっと試練に晒されなければならないだろう。深く思考し、広く感情し、高く意志する魂、あらゆる真理を吸収する柔軟な魂として生気を帯びなければならない。私が思考しうる限界線を越えるよう手引きされ、宇宙に流れる心情に共鳴し、ひとつの個性真理体としての創造使命への強い衝動が、鼓動として張り裂けるほど胸を打つ。そんなように人間の本質を蘇生させ、まさしく万物の霊長と言える存在であるべきなのに、なんとちっぽけな魂様相であろうか。祝福家庭が聞いて呆れ、情けないにもほどがある。私の魂はこの身体に収まるどころか、拳ほどの大きささえない。この地球を包み込み、大宇宙を駆け巡る程の魂であるべきなのだ。み言の訓読をしながらも、背を向けたままのみ言を追い続けることに重々しさを覚え、支える右手が震えている。

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