夏の間はチムニーロックの先端に人影の耐えることは無い。エレベーターが停止しているので諦める人も幾らかはいるだろうが、それでも入れ替わり立ち代り先端からの観望を臨みに来る。先端は丸みを帯びていて、端の方に足を伸ばせば低い簡単な柵があるのみで、そのまま滑り落ちてしまいそうな感覚を覚える。そう強いステップを踏まずとも水溜りを越すように軽く足を踏み出せば、そこは既に肉体に取っては生を超えた死の領域だ。足が竦む手前で座り込み、一寸先の死の領域に対面しながら魂に浮かび上がるものと対話する。日常生活の空間では味わうことの出来ない、根源からの問いかけが魂に浮かび上がってくる。座り込んだ背後には現世のざわつきが絶える事は無いが、心の波を鎮め意識を半歩先に持っていくことで、現世の捕らわれを抜け出てしがみ付くもののない世界に足を踏み入れる。そこは決して地上のような足場が用意されてはいない。足場のない世界で足場となるものを自分は用意できるだろうかと問うことになる。その問いかけから地上的なものを足場とするには無理があることを悟る。権力であったり持ち合わせている財産であったり、或いは計算的な人間関係であったり世渡りの要領であったり、そう言った類のもの全ては肉体を超えた世界では足場としては何の役にも立たないことを思い知る。霊界とはそう言う世界だろうと感情として認識できるし、自分はそう言う世界に携えていけるものに価値観を置いて生活しているだろうかと問い始める。その問いかけこそ本来の宇宙のエネルギーを受け取ることが出来る、宇宙のプラスに対するマイナス相対に立てるのであって、決してこの世的なものを受け取る場ではない。この世的なものを受け取れる場には間違いなく悪しき霊が携わっている。悪しき霊がこの世的なものと引き換えに最も大切なものを奪おうとしている。このチムニーロックはチムニー、即ち煙突を意味してはいるが、霊の本質を受け取る感性が備わった者であれば必ず生殖器の姿をそこに見るはずだ。この辺りがアメリカ大陸のへその位置にあり、そしてこのチムニーロックは明らかにアメリカ大陸のエネルギーが集められる避雷針であり生殖器だ。そう言う話をすると南にいる親しい友は冗談で男根信仰かと笑うけれど、アメリカに取っては生命の根源が渦巻く場がそこにある。先端に座りながら、イエス様が三大試練を受けられた位置に、次元としては低いながらも立たされることで、私の本質が根源に今一度強く繋げられて正しく生活することを正される。暫くして娘を促し降りて行ったが、登りルートを強いられたことで、精神の高みには半歩進むにも相当の精誠が要求されるけれど、降りていくことが容易いように、堕落し転がり落ちるのはあまりにも簡単だという単純なことを思わされた。パーキング場まで一気に降り、笑みの中にも待ちくたびれた表情を差し出す妻に合流した。
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