2010年9月30日木曜日

今日の想い 215

誰であっても今の自分にそれなりに満足し、順調に毎日が送れているならば、敢えて内面を掘り下げ、根源的な存在を求めて問いかけざるを得ないような冒険はしない。快い感情の彩りに包まれたまま、その場にしがみ付き、意地でも離れまいとするのが人情だ。今の安住の位置を蹴ってその位置を離れることで、それまでは見えなかった腐臭漂う魂の深みに下っていくなら己の醜さが不快感情として噴出してくる。普段はできるだけ内面が揺さぶられることがないように、外界に対して何重にもバリアをしいて生活している。平穏な位置で敢えて自分から揺さぶりをかけて、苦渋を選択するような人間は一人もいないだろう。しかし内面を掘り下げること無しに、自分の本性を日に曝して直視することなく、内的霊的な感性は養えないし、内的霊的知恵に至ることができないのも確かなはずだ。御父様の心情圏に入っていくということは平穏な位置でなされるものではなく、死を超えるほどの内的痛みを覚え血の流れるのを内面に見るほどに、御父様と同じ事情圏を通過することで心情圏に入っていける。自分で魂の深みに下っていけないなら、誰かに突き落とされてでも自分の魂の本性を味わうしかない。自分の選択意志とは関係なしに、避けられないものとして受ける痛みや苦渋がある。その時、突然の痛みや苦渋ゆえに自分の悲運を嘆いて当然のように思えるけれども、そうやって突き落とされない限り自分の堕落的本性に感情を曝すことはない。御父様に従うものであれば、その道理をよくよくわかっているはずだ。迫害される位置、蔑まされる位置、痛みを受ける位置、嘆きの位置、その位置に立つことの意味を、その位置に立つことの価値を私達は知っている。迫害される位置で実は霊的擁護を受け取る。蔑まされる位置で霊的尊敬を受け取る。痛みを甘受しながら霊的に癒され、嘆いているけれど霊的には喜びに昇華させている。振り返れば全ては愛であったと、御父様のその言葉を私の言葉としても光を放つ言葉となると言う、その証しを立てている。あらゆる悲観的マイナス位置に下りながらその位置を消化することで、実のところ新しい真の愛の世界を創建している。

2010年9月29日水曜日

今の今を生きる

人間は本来、今を生きる存在に違いない。この体は今を生きている。しかし体は今を生きているけれど、私は今を生きていると言えるだろうか。今を生きることを意志していると言えるだろうか。過去にこだわり未来を案じることに自分を費やしてはいないだろうか。今の私の生き方の在り様を何の疑問も持たずに受け入れていると言うことがそもそも間違いなのだ。時間の流れに魂を任せてしまって、惰性的に生きている生き方だけが生きる在り様ではない。過去と未来にこだわっている限り、そのこだわりゆえに今を生きているとは言えないだろう。その生き様を説明するなら、魂は過去に訪ねて見たり、そして定かではない未来に遊ばせている。今という基点は過去と、そして定かではない未来を行ったり来たりする通過点に過ぎない。今がただの通過点に過ぎないなら今を生きているとは言えない。過去と今のない未来(今を生きてこそ本当の未来はある)、それは私ではない他の霊が大きく関わってしまう他人任せの未来と言えると思うが、それにこだわることで時間は私には重荷となって自分を縛ってしまう。過去と未来を行ったり来たりすることで今を生きることに意志を捧げてはいない。だから私が認識している時間の概念には時間の縛りが含まれている。時間に拘束されている。御父様が私達に語られるときに、君達が~すれば直ぐにでも(明日にでも、瞬間に、)~となる、と言う言い方を良くされる。それは物の言い様としての言葉ではなく、事実時間に拘束されない御父様の偽りのない言葉として私達に伝えておられる。私達は今を生きることに目覚めなければならない。今を生きることで初めて意志した果実としての未来を見通せる。未来は私のものであり私の主管の内にある。一切の過去振り返らず、一切の未来を案じず、ひたすら今を生きる。今を生きることで過去が息を吹き返す。今を生きることで未来を産む。

2010年9月27日月曜日

秋口の思い出 2

なだらかな山の斜面を登るように、ススキの穂が一面を覆っている。秋の優しい日差しを受けて見渡す限り銀色に光っている。時折吹く風に一斉に穂を揺らして銀色の絨毯が大きくうねる。海の見えない山村で、目の前に海が広がる感触をこの場に立つことで覚える。銀色の波打つ海が全方向に広がっている。はしゃいで走り回る友達には目もくれず、細めた視線を遠くの方に遣りながら暫くの間佇んでいたが、意識を取り戻したように私に微笑んで目配せすると、大きなバスタオルを広げた。そこに腰かけ私にもそうするよう促すと持参した弁当を広げ始めた。から揚げやらサンドイッチ、家では口にすることも無い色鮮やかな料理が並べられた。母親とですらこんな状況は一度も無いのに、ひとりの女性と一緒に食事をすることに何か罪悪感らしき感情を母に覚えた。相変わらず何も喋らず下を向いたままで、薦められるままに機械的に箸を運び口を動かしていたが、その内に先生の方から覗き込むように色々と尋ねてきた。詳細なことは覚えてないが、他愛も無い問いだったように思う。小学生に尋ねることなどたかが知れている。可愛い教え子のひとりというだけのことだ。その先生は二年の間同じクラスを受け持った後、他の就任地へ移動になった。新しい学年になっても暫く胸の中にスースー風が吹いたような感じだった。秋口になるとススキの海を思い出す。ススキの匂いのする風が止むたびに香り立つ先生の匂いを思い出す。その頃のことは殆ど記憶にないのに、何故かこの思い出だけはその時の感情そのままに再現できる。誰にも心を許さず、母親の匂いだけに包まれながらそれまで守られてきたけれど、初めて外界の匂いを宛がわれ、外への関心を誘うような出来事だったからだろう。思春期にはそれなりに周囲の異性への関心もあり、少なからず恋心も芽生えたけれど、あの時の思い出ほどの経験はあれから一度たりともなかった。先生の女性としての優しさが全ての女性の優しさのままに保たれることで、それが誰であろうとも、やがて出会う相対を迎える純粋な期待感が、私の中で芽生えていた。

2010年9月26日日曜日

秋口の思い出

小学三年生に進級すると、新しい担任の先生がクラスを受け持った。こんな田舎には珍しく、若い女性の先生だった。おそらく初めての就任地だったのだろう、僅か十二人の児童の前で硬い挨拶を緊張した面持ちでされた。糊の効いた白いブラウスと新調の紺のスカートとは裏腹に、何か悪さをして前に立たされたような面持ちで、ひとりひとりの児童を不安げに見渡しながら、それが返って親しみを覚えさせた。毎朝先生が教室に入ってくると立ち居振る舞いを誰もが注視しながら、田舎にはなかった空気を感じてクラスは活気付いた。次第に慣れてくると、先生というより友達のように、個人的なことも隠すことなく話したり聞いたりするようになり、誰からも好かれたけれど、特に男子の関心は特別だったはずでクラスの女子は幾分浮いていた。或る朝、腰の左をかばいながら登壇されるので、ひとりが理由を聞くと、滑って転んで傷つけたことをみんなの前で話してくれた。冗談で見せて欲しいと誰かが言うと、何の躊躇もなくスカートのジッパーを下ろし傷ついた場所を披露しながら、どれだけ痛いかの理解をみんなに求めた。傷ついた箇所より腰の白い肌に男子は目が行って、気恥ずかしさで黙ってしまったが、その気配を気にもしない或る意味天真爛漫な先生だった。そんな先生が或る休みの日に私の家まで訪ねてきた。何かあったのだろうかと母が不安げに尋ねると、申し訳なさそうな口ぶりで私を預かる了解を求めた。ピクニックに私を誘いたいと言うのだ。陰で会話を聞いていた私は断りたい一心だったが、弁当持参で尋ねてくれた先生に母が丁重に礼を述べ、私を呼び出すのでどうすることもできなかった。玄関先に顔を出すと、暗い土間に不釣合いな、淡いピンクのサマーセーターの先生が立っていた。軒下に散らばったツバメの糞に気付かず綺麗な靴で踏みはしないか心配しているうちに、母に促されるままに先生に従い家を出ることになった。日は既に高く、秋口と言えども日差しは強かったが、一歩外に出ると涼しい風が先生と私を包んだ。距離感が何とも気恥ずかしくて、誰か級友に見られはしないか心配で、自分の気配を少しでも消すように、間を少しでも空けるようにして付いて行った。歩きながら先生は振り返って私の優しさとおとなしさに触れ、更に私のそこが好きだと告げた。先生に取っては深い意味はなくとも、余計に緊張させ私の口を閉ざさせる。裏山への道に差し掛かると、一級下の友達に出くわした。私には先生とふたりだけではとても気まずくて、居合わせた彼を誘って取り込まざるを得なかった。先生の顔が陰ったように見えたけれど、私に二人だけで行く選択は苦痛だった。おしゃべりな彼に先生の話し相手を押しやって、やっと安堵の思いで軽くなった足を運んでいった。民家が遠のくに連れて少しずつ開放感に包まれてゆき、周りの景色を見渡すゆとりや、先生の足元を気遣うゆとりも持てるようになった。

今日の想い 214

小さいけれど大切な、私に取っては大切なこの祈りが届くように、僅かの条件を供え続けている。公にすればあまりの規準の低さに馬鹿にされそうだけれども、それでもこの願いを捨てきれない。家族の笑顔で私の魂いっぱいに満たされるなら、私の記憶の景色は明るいものになる。今は全ての記憶に陰りが残り、思い出は重々しい。今の感情がそうさせている。今の私に色とりどりの光溢れるタッチを内面に届ける力は失せていて、灰色にくすんだ線で記憶は縁取られている。自分の感情に支配されればどこまでも灰色に染まり、暗い背景に沈んで存在すらも否定されてしまう。本心を備えた自我の存在があることを教わらなかったら、私は遠い昔に消え失せていた。感情に耐え切れずに暗い魂達の灰色の河の流れに滑り込んで同化し、河を見つめる悩める同じ魂達を引きずりこんでいただろう。堕落的感情に飲み込まれそうになりながらも、それでも辛うじて神様に繋がる自我を見失うまいとする本心が、今の私には働いている。マストを建て直し、帆を張り直して、航海を続けようとする意志こそ本心の行動だ。私の中で神様とサタンが対峙している。本心良心に働く神様と、魂の大きな部分で働くサタンが対峙している。人間が感情存在であるということは、サタンの圧倒的な優勢を保っているということだ。私の祈りへの発露は、自分の感情に抗することができない弱さから出ている。でも、それでいい。弱さを自覚することでしか未だ堕落的な私がより本心を認識し、神様に繋がれた自我を認識していく道は他に無い。自分の弱さを十分に認めた上で、痛みを取り払われることを願い、十分な収入を願い、子供の先行きの安定を願い、しかし未だ叶わない願いに余分な感情や執着を重ねるのは自分の弱さを認めた立場ではない。弱い私は今日も条件を立てる。条件を供えて祈りを聞き届けられる日を心静かに待ち続ける。

2010年9月25日土曜日

希望の実体

働いて、働いて、そしてうまい飯を食う。うまい飯が食えれば美味しいお茶が飲める。生きて、とにかく生きて、ひたすら私の人生を生きることで喜怒哀楽の詰まった生涯を愛おしく見渡せる。そして彩られた愛おしい人生のキャンパスを携えて、生まれる前の故郷に帰っていける。全てが愛であり、全てが美しかったと言えれば最高の旅立ちだろう。一日の終わりにお茶を啜って安堵の吐息を洩らす時が、一生を終えて旅立つ時の最後の吐息をイメージさせる。一生懸命に生きることだ。とにかく一生懸命に一歩を踏み出し続けることだ。生きることの意味を問う間にも生きて時間は流れていく。意味を納得して生きるのではなく、生きて意味は後からついてくる。明日の一日は誰しもが体当たりであり、明日の結果がその日の意味を教えてくれる。エバの問題は、目が開けるという自己自覚を愛より先に欲した。意味を納得しなければ動かないというのは堕落したエバの在り様と同じだ。自覚より愛が先になるべきだ。精誠を供えることを前面に押し出すべきだ。一生懸命を前面に押し出すべきだ。それでこそ堕落圏を超えていける。苦労して、苦労して、苦労から逃げることなく甘受し続ければ、全ての苦労を吹き飛ばして余りある神様の慰労を受け取れる時が来る。神様の慰めを受け取れれば光り輝く祝福にあずかれる。高次の愛が滝のように私に流れ込む。人間は本来そういう存在だ。直接的に愛を受け取れる神様の愛の実体対象だ。紆余曲折しながら遠回りに次ぐ遠回りをして、しかしどんなにさまよったとしても確実に愛の本郷が用意されていて、そこに必ず辿り着く。だからどんな人間であっても希望を失う必要は無い。私達が人類の希望の実体対象として証しを立てれば、人類は目が開いて自分が希望的存在であることを悟る。見せることができる外的希望も大切なのかも知れないけれど、どんな事情圏環境圏であっても生き延びることが出来る内的霊的希望はもっと大切だ。

現代終末に於ける内的秘儀

人は普通、波の立たない平穏な毎日を送れることを望んでいる。しかし、明らかに今日食べるものも無く、雨風を凌ぐしっかりした家屋も無く、明日の命をも保障されない人達も現実としている。或いは、外的な生活に何の心配も無かったとしても、内的な不安や孤独に襲われて耐え切れず、自分を無いものにしたいほどさまよっている人達もいる。その現実に目をつむり耳を塞ぎ、己が平穏だけに執着するなら、それは本当に平穏だと言えるだろうか。決して人の目を気にする偽善からではなくても、世界の問題への認識を持っている以上、今前に置かれた食べ物を何の負債も無く喜んで食べ、無邪気に笑える毎日を送れるはずはない。敢えて無視して生活していればそのうち気にも留めない自分になっているけれど、確実に負債は内面に積み重なっている。いつの間にか我知らず莫大な負債を溜め込んでいる。み言に触れ御父母様に帰依するなら尚更だろう。平穏な日々の中では絶対に新たな創造は為されない。波風の立たない平穏な内面の位置をゼロとするなら、ゼロの位置からの創造は為されない。ゼロの位置で創造への衝動は働かない。内面に於いてマイナスの位置に下ることで初めて創造への衝動が沸き起こる。マイナスの位置に下れば下るほど、創造への内的力は更に増す。御父様は私達により苦労することを願われる。苦労の百科事典としての統一の群れを願われる。神様が創造されたこの世界は原理原則で貫かれている。堕落した世界であっても同じことでサタンも原理原則に従わざるを得ない。より苦労したものがより高みを目指せる。自分の許容範囲の限界を超える苦労の領域に敢えて押しやられることで、堕落領域が横たわるゼロ点のあたりを遥かに超える領域に飛翔していける。味わうこの苦労が見事な化学反応で高みへの衝動力に変化する。新たな内的外的創造への爆発になる。何ひとつの苦労も無駄にされることはない。苦労が見事にその何倍にも力を作用させるビッグバンとして爆発創造されるように、苦労を甘受し痛みを感謝に変えながら、最も悲惨な立場から最も霊的高みに瞬間移動する天的な内的秘儀を御父様から学んでいる。私達は外的のみならず内的にもどれ程惨めに見えるか知れない。しかしその中でこそ培われてきたものが確実にある。千態万状の苦労のマイナス位置に下れば、千態万状の創造のプラス位置の高みまで届く。

2010年9月23日木曜日

今日の想い 213

私には悔い改めるべきことが山ほどあるに違いない。ひとつひとつの事柄を拾いながら、反省すべきかどうかの判断を立てることはできる。しかし問題は、その事柄に関して悔い改めに繋がる感情が伴わないことだ。申し訳ない感情を発し、悔い改める衝動が私の中で突き上がらなければならないのに、それがないと言うことは意識化に於いて私の悪の在り様を正当化している。私は意識下に於いて言い訳をしている。それなりに裕福であり健康であり、幸せな気分で毎日を送るということをひとつの基準ラインとして勝手に決め付け、それ以上であれば喜びと共に感謝を捧げ、それ以下であれば嘆きながら不満感情に陥る。その感情次元から離れることができなければ、いつまで経っても悔い改めに至る門も開かないだろうし、その更に先にある心情圏への門に辿り着くこともできない。幸せな気分に留まることのみを指し当たっての願いとして毎日を送るなら、み旨を知らずに暮らす人々と何処が違うのだろうか。結局は何も変わってはいない。御父様を口にする只の堕落人間の魂に留まったままだ。私が気付くまで、私の中で完全否定されるまで、いつまでもどこまでも果てしない試練は続いていく。私の感情を私という個人や私の家庭に留まらせるべきではない。私の感情は氏族の幸せを想い民族を想い国家を想う。私の魂が個の想いを突き破り家庭の想いを突き破ってこそ、為に生きる道理を学んでいると言えるだろうし正しい姿勢でみ言に対していると言える。私は敢えてこの今の感情を否定しなければならない。問題を抱える子を想い、病に沈む妻を想う感情だけを魂に満たしているけれど、その執着を敢えて否定して、氏族をより想い国家を想い、そして勿論神様御父母様をより想う私にならなければならない。私はこれ程に遠回りしながら、やっとかすかに、全うな食口の在り様に気付かされる。御父母様を心から慕い侍りながら、自分の家庭を犠牲にしても血と汗と涙を流す食口の輝きが、今更にして私には眩しく映る。私にはどれほど悔い改めるべきことの多いことだろう。

2010年9月20日月曜日

今日の想い 212

九月も半ばを過ぎると光も随分柔らかくなって、外界は真夏の強烈な光を嫌と言うほど浴びながら熱に踊り、そして踊り疲れ、無我夢中で遊んだ後の子供の様に余韻に浸っている。太陽が光を放ち、地上が光を受け取る。光を受け取ることで熱を上げ、全ての細胞は熱に踊る。地上が踊るのを見ながら光を放った太陽も喜びのうちに合わせて踊る。陽が与え陰が受け取る。陰がその美を喜びとして返して陽が受け取る。地上の主体は確かに太陽だ。太陽が地上を愛している。地上の存在は鉱物も植物も動物も、勿論人間も、太陽に愛されている。外的に捉えることができる愛の関係性を、私という内面に見ることができるだろうか。内面の太陽が燦燦と陽光を放って内的生命が益々力を得、私の内面という宇宙に与えて受ける愛が活き活きと交わされているだろうか。外界に見る愛の関係性を感情の爆発が起こる刺激として受け取ることが出来る内面の共鳴体となっているだろうか。夫婦の愛の歓びが只の感覚的なものに留まるなら、外界に広がる愛の関係性の本質も知らないし関わりも無い。ルーシェルが関与する地上的五感の感覚性を突き破って、愛の本質、真の愛の関与する心情圏に飛翔しなければならない。御父様がどれほど真の愛の素晴らしさを説かれようとも、心情圏に入って触れもし浸透もする真の愛を受け取った者でしかその実感は解らない。地上的な愛に執着して留まる限り真の愛は受け取れない。ひと夏を終えて、優しい光に包まれて憩う緑を意識の対象にしながら、未だ被造世界の本質、愛の本質に入り込めず形骸化したものでしか外界を捉えることが出来ない焦燥感を味わっている。しかしいつまでも立ち止まるわけにはいかず、兎に角今日の為すべきことに意志を向けるべきだ。

2010年9月18日土曜日

闘う君へ

私達は打たれることでその心情を試されている。魂の在り様として堕落的なものが見え隠れするのは仕方が無いとしても、内外の、あまりの大きな試練に辟易して恨み言のひとつふたつをぶちまけたとしても、それでも最終的には親なる御父母様、神様の事情を優先し、あなたは御父母様の息子であり娘であると言わしめる心情を供えたなら、それは祝福として戴いた神様の血統圏から外されてはいないと証明される。だからこのD-DAYまでの内外の試練は、それを阻止しようと今までの比ではなく執拗に負い被さる形で責めてくる。前後左右、全方向から打たれ続けながら、それでも私は神様の息子娘であると断言し、御父母様神様に対する子としての心情を更に深めるなら、サタンは屈服せざるを得ない。しかし敢えて言うまでもないが、戦いは益々過酷を極めていく。決して生易しいものではない。信仰を失う者も出てくるだろうし反旗を翻す輩も出てくる。この戦いを切り抜けていく為には我々はどういう信仰態度が必要だろうか。絶対信仰はその通りだけれど、絶対信仰を念仏のように唱えていても絶対信仰の基準とひとつになることは出来ない。40年近い歩みの中で私が言えるとすれば、ひとつは謙虚な姿勢であり今ひとつは攻めの姿勢を失わないことだ。日本人としての背景がある為、クリスチャンの家系に見る罪意識が備わっている訳ではない。私に罪があると理解するのと罪の意識とは異なる。内的在り様が異なると言うことだ。み言を学んだからといって一朝一夕に備わるものではないし、家系、霊的背後としての積み重ねで備わるもので、であればこそ欠ける罪意識を補う謙虚な姿勢は必ず必要だ。攻めの姿勢というのは受身、受動的護りに対しての攻めの姿勢ということで、ビジネスに於いても攻めは最高の防御だと言う様に、敢えて試練に曝されないようにできるだけ影を潜めていようと背を丸めると、ここぞとばかりに霊的に挑まれる。試練は機械的に現れるものではなく、霊の挑戦を受けるのであって自ずと霊の魂を相手にしている。背を向けて戦いを避けようとすれば相手は余計に付け込んでくる。決意と覚悟を供えて、背を伸ばし顔を上げ堂々と天の血統圏にある威信と誇りを輝かせて対する意識を忘れないことだ。喧嘩でもはったりが功を為すように挫けそうになったら声を張り上げることだ。相手が攻めれば攻めるほどより信仰は強くなり、より御父母様とひとつになると見て取ると、相手は屈服する。

http://www.youtube.com/watch?v=rgBoyDCJEi8

2010年9月15日水曜日

今日の想い 211

若くて健康であった日々を振り返り、あの時分に戻りたい感情を募らせ、逃げることができない今から逃げることだけを意識の大半にもたらすなら、決して御意に沿うているとは思えない。非情のようだけれども、こうなることを選んで地上にやって来たとも言える。こうなることを望んで今日までを生きてきたとも言える。誰か他の存在に、この運命を押し付けられ追い遣られて地上に生まれたのではなく、私が意志して選んで今の今がある。私という存在の根源を堕落人間は知らない。魂の活動そのものを私として認識したままでいる。魂の奥にある隠された、私は私であると言える自我存在を認識してはいない。自我の認識に至らずに魂の活動を私だと思っているから、魂に織り込まれている堕落的な要素をも含めて私であり、罪を認識することができずにいる。子供の頃は成長させる高次の霊的存在が働き、その気分の中で子供時代を送り、思春期には生殖を司る高次の霊的存在が働き、その気分の中で青年時代を送るのであれば、壮年時代には壮年時代に関わる高次の霊的存在が働いているはずであり、その気分が若い頃の気分を羨むだけの気分だとは思わない。気分として歳を重ねた悲哀だけで壮年老年を送るなら、正しく人生を認識してはいない。そのように、健康な時期には健康な気分のなかで内的霊的に或る力を培う願いが込められているのであり、病を通過する時期には病の気分のなかで別様の内的霊的力を培う願いが込められている。若ければ神様の恵みを受けていて年老いれば神様から見放されているとは言えないように、健康であっても病の中にあっても、種類は違えど等しく神様の恵みは受けているし、それぞれ違う側面の神様の愛を受け取り実感することができるはずだ。人情として羨まれる立場より、人情として不憫な立場でこそより神様を感じることができる。神様御自身が最も不憫な立場で気の遠くなるような復帰の歴史を尋ねてこられたからだ。

2010年9月14日火曜日

空の青

あの空の青の中に生命の息吹が詰まっている。空の青のほんの僅かでも戴くことができたなら、数百年を超えて余りある生命の力を受け取れる。自己中心的な人間はあまりにも身体が重すぎて、自己中心のベクトルに執着しすぎて、ますます空の青から遠ざかってしまった。自分への執着こそが自己存在を成り立たせているという偽りの観念に支配されて、短かすぎる地上生を皮膚に閉ざされた内側だけで送っている。アダムとエバが楽園から追放されたように、私達は空の青から遠ざかった。空の青をいつも見上げながら、しかし決してその溢れる生命を受け取ること無く地上に縛り付けられている。今日も青い空を見上げながら想いを募らせる。空の青が恋しくて恋しくて、居た堪れないほどに想いは募っていく。痛みに歪んだ顔を見続け、地上に救いは見出せず、生き永らえることすら恨めしく思う時がある。この分裂を、心と体の分裂を背負ったまま、矛盾する在り様のまま貴重な時間は流れていく。青い空を見つめながらも青色に輝く生命を受け取ることは出来ない。生命のベクトルと自己執着のベクトルは相容れないものだからだ。自己に向かっていたベクトルを他に向けるとき、空の青は僅かばかり近付いてくれる。空の青へ差し出すものを用意したとき、向こうから近付いてくれて生命の強さを受け取ることができる。与える心に満ちたとき初めて受け取ることの意味を知る。執着の思いで集めるものは生命のない形ある霞にすぎないことに気付く。今は空の青への憧れを一時封じ込めながら、与えたい衝動に駆られる自分を取り戻すことが大切なのだ。執着する想いをどこまでも否定しながら、ひたすら為に生きたい衝動を育てて大きくするなら、仰いでいた空の青をいつの日か私の中に見出せるだろう。その時、空の青は私の在り様でもあると言えるだろう。私の青い春が遠からずやってくる。

2010年9月13日月曜日

今日の想い 210

御父母様の勝利圏を頂いて、私達は自分の名で祈ることを許されたし、祈祷は報告祈祷として供えられることとなっている。日本で活動していた時に、兄弟達の祈りが耳に届くのに任せていると、その祈祷内容の高さに驚いたものだ。自分も背伸びしてその基準に合わせようとするけれど、内的内容が伴わないくせに表面的に繕っても続く訳がない。かえって空しくなってくる。かと言って、兄弟たちが地を叩き涙を流して悔い改める立派な祈りに相応する生活態度を示しているかというと、意外とそうでもなかったように思う。祈祷内容と生活態度とのあまりのギャップを見ながら、祈祷している自分に酔っているだけなのだろうかと感じていた。本来なら祈祷内容に必死で自分を合わせようと、身悶えする摂理的期間が必要だったと思うけれど、私も含めて多くの兄弟は祈祷内容と自分との乖離の為に遠回りの個人路程を歩まざるを得なかったように思う。言葉にすれば責任が伴うけれども、祈祷で口にした言葉と私の在り様が一致していなかった。神様に対して偽りの態度で接したことになり、祈祷も自分も貶めてしまう。全体の前での公的祈祷は別として、より地に足を着けた報告祈祷が成せることは大きな恵みだ。報告祈祷を通してより神様を身近に感じることができる。報告内容があまりにも程度の低いものであったとしても、しかしそれが偽らざる自分の内的実情だ。大切なことは確実に祈祷を重ねながらその報告内容が次元を上げていくことだ。報告祈祷を通して内的霊的次元を上げながら、実態の自分も内的霊的に成長していくことだ。そして報告すべき起こった出来事、感じた感情、意志した行動に意識的に光を当てながら、神霊の係わりや善霊の働き協助をしっかりと認識することだ。すべての事柄の背後には霊的なものが隠されている。霊的な活動に自分に働く神様の意志や心情を見出すことができ、そして自分に関わるサタンの企みも見ることができる。

今日の想い 209

音楽であれ演劇であれ、芸術といわれる全てのジャンルに於いて、それぞれのジャンルの表現方法を用いて霊の本質を表現している。五感に圧倒されて生きている人間の、五感のみでは受け取れないその感覚の裏に隠されたものを表現できる。芸術は該当する製作者本人も含めて霊の本質の表現だ。それは見えないもの聞こえないもの、五感で受け取れないけれど存在するもの、根源の奥にあるものを取り出しながら感覚的なものに現していく。その霊の表現を創造ということができる。非原理という堕落の血統圏でありながらも、様々な芸術分野に於いて神性を垣間見ることができる作品が創造されている。ましてや祝福を戴いて御父母様の血統圏に繋いで戴いた私であれば、彼らの作品を超えて余りある創造活動を為して当然であり、彼らが見上げる証しを立てることが必ずできるはずだ。私には私の創造本性が生きている。見える実力として備わっている何ものも私の中には無いように思えて、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになろうとすれば、御父様と心情をひとつにしたいと願い邁進すれば、ひとつとなる過程で必ず本然の創造性を発揮する雷光が煌く瞬間を迎えるはずだ。終わりの無いような嘆息の日々に主管されるのではなく、必ずその期待感を持って歩むべきだ。霊の解怨というように、霊と聞いて霊障を与えるような霊の存在は信じているけれど、創造性を喚起する神霊の関わりが私にもあることは信じてはいない。ヤコブの前に格闘を挑み試練を試みようと現れた天使は、勝利してみれば福を与える祝福の存在であったように、この道の困難さを思い知れば思い知るほど、その背後に大きな恩恵として創造性を喚起する神霊存在が活動を準備していることを期待すべきだ。真の父母に繋がらない者は益々霊に振り回されるだろうし、逆に私達は益々神霊に満たされていく。

2010年9月12日日曜日

今日の想い 208

溜息しか出ない嘆息の只中で、神様の事情を想うことができるなら、そして私が舐めているこの苦しみ以上の苦しみを味わっておられる神様であることに想いが至るなら、この苦しみゆえに神様の事情を味わうことができるし逆に神様を慰めることすらもできる。堕落圏の中で神様と何の関係もなく喘いでいた立場からするなら、それはどれ程ありがたい立場だろう。この痛みや苦痛は感謝こそすべきであり、嘆息圏で嘆いたままでいるならどれだけ神様に対して申し訳ないことだろうか。しかし悲しいかな未だ堕落意識から抜けきれずに、どうしても地上的感情が魂にもたらされてそれに主管されてしまう。痛みが少しは和らいだのか、壁に手を添えながらすり足で部屋を出てきた。薬が幾分効くこともあれば全く効かない時もあるようで、顔が穏やかなのは今のところ少しは効いている様だ。他の薬を飲みに起きて来たらしく、色違いの薬を四、五錠口に放り込むとボトルの水を傾ける。折れそうな細い腕は激しく震え、ボトルの口を上手く口に固定できずに飲もうとするので、胸元に多量の水をこぼしてしまう。しかし今の彼女に取ってはそんなことはどうでもいいほど気は萎えてしまっている。それでも大丈夫かと聞くと消え入りそうな声で大丈夫だと言う。その気丈さが彼女の良い面でもあり悪い面でもあるけれど、気丈さ気の強さと頑なな心とは裏表であり、頑なな内面様相は病の癒しに必要な柔軟なものとは相反する性質があって、それは身体を硬直化させてしまう。そんなことを思いながら、しかし決して口に出すことはできないでいる。それでもひと月以上に渡って痛みを味わいながら、明らかに彼女から削げ落ちたものがある。断食の日数を重ねていくような、そんな面影を苦しい表情の中にも見ている。彼女は彼女なりに内的ステージを上がっているのを見ることができる。痛み苦しみの中でありとあらゆる想いを錯綜させながら、やがて一点の光に導かれていく。それは絶対信仰の基準とひとつになることを教える内面の灯台の灯だ。自分に取って信じられることのみを信じるのではなく、信じられないことを敢えて信じる事に信仰と呼べる姿勢があり、その線を越えてこそ絶対信仰への一歩を踏み出したと言うことができる。神様を信じ霊界の存在を認め、御父様を再臨のメシヤだと認めればそれで信仰は完成するのではなく、ピンからキリまでの信じる程度があって私の認識基盤の多くは地上的堕落的なものに拠っている。その基盤を否定して壊しながら、み言によるものを基盤とすべくそこに信仰の力を注いでいかなければならない。

2010年9月11日土曜日

責任分担

責任分担という言葉を私達は知っている。神様が人間に責任分担を与えられたという御父様の発見は人類史上最高最大の発見だ。間接主管圏から直接主管圏に入っていくのにこの責任分担を果たしてこそ、神様が直接的に対してくださる真の愛の絶対圏である直接主管圏に入っていくことができる。アダムとエバは人類の根源の立場で、根源の責任分担を果たすことができなかった。堕落ゆえに人類が罪を背負い悪魔を父母とせざるを得なかった立場で、ありとあらゆる悪が蔓延してしまったこの地上地獄天上地獄に埋もれて、阿鼻叫喚の苦しみを吐き続けた原因が、人類始祖の責任分担が果たせなかったことにある。長い人類歴史の中で今日まで責任分担に対する発見が為されず今に至ったのは、神様にとって堕落の事実があまりにも心痛く、軽々しくお前は責任分担を果たせなかったと忠告できるような状態には無くて、人類にとっても堕落に隠された責任分担の意味を悟るに相応しい状況でもなかったはずだ。責任分担に対する御父様の発見は、神様をなだめてなだめてなだめ尽くして、できるなら触れたくない神様の痛みの根源を御父様の神様に対する精誠ゆえに表に出された。神様にとってみれば堕落の事実は、結果として責任分担ゆえのことであるという神様自身の非を神様自身が責め続けてこられたからだ。神様自身が責任分担という言葉に恨みを覚えておられる。御父様が神様の恨みを解いてこられたように、私達が神様の恨みを解放して差し上げることができるとするなら、絶対信仰、絶対順応を供えることで私としての責任分担を全うしながら、その歩みに喜びを見出していくことだと思う。神様自身が触れるに苦しい、神様の恨みが篭った責任分担を御父母様が完成された意味は、神様を解放されたと言うことだろう。堕落の事情圏、環境圏の中で内的にも外的にも喘ぎながらも、この痛みがこの苦しみがひとつの蕩減条件となり責任分担を果たすことの出来る自由な環境を開くと確信できれば、痛みの中にあっても痛みが喜びと成り得るし、苦労が必ず実る事実を認識できるし、痛みゆえに苦しみゆえに御父母様と共にあり再創造のみ旨に参画している自分を実感できる。

2010年9月6日月曜日

NEWHOPE号

堕落世界という海は荒れ狂うごとに水位を更に上げていく。人はそれぞれ自分なりの船を持っている。穏やかな海が続くなら粗末な船で十分だろう。しかし終末の堕落世界は荒れ狂う。木の葉のようないかだ舟で生き残ることはできない。波間に藻屑となって砕け散る。そのうちに地上で平穏な日々を過す者は誰一人いなくなる。自分の船が終末を超えて荒波に耐えうる船ではないことを誰もが認めるからだ。御父様が沈まない船NEWHOPE号を創られたのは象徴的だ。絶対に沈まないNEWHOPE号は、この地上界で如何なる困難試練にも耐えうるみ言実体になることとリンクしている。祝福を受けた私達に於いても、自分の魂がどういう類の船なのか今の今試されている。荒海の中では役に立たない飾り物を全て排除され、見事な曲線で縁取られた簡潔なボディーは、荒波から逃げることなく真っ向から対する闘いの王道がイメージされる。この洗練されたNEWHOPE号の在り様が私の中で生きているだろうかと問うことができる。私が、新しい希望の実体として、向かい来る荒波をものともせずに立ち向かってこそ、お父様の息子であり娘であると断言できる。訓読を供えながら、私の魂は再生される。堕落世界で、地獄の底まできりもみされながら砕けていく、そんな船は船とは言えないだろう。NEWHOPE的魂の船を私達は用意している。地獄の底が撤廃されて、ありとあらゆる悪霊現象に地上は翻弄されていく。この地上で平穏に暮らせる人は誰一人としていなくなり、そして誰もが救いを求めざるを得ない。その時に魂のNEWHOPEは誰からも羨望の眼差しで見上げられ、御父母様の栄光を誰もが認めざるを得ない。最近、船は人間そのものであると語られたみ言が、私の中に落とし込まれる。波を掻い潜って進むNEWHOPE号の勇ましい姿が私の中で生きている。

2010年9月4日土曜日

今日の想い 207

いつも何か受け取ろうとしている。何か貰えるものはないか期待している。神様を信じることは善しとしても、神様に対しては常に要求モードだ。本然の人間であれば与えたい衝動に満ちているはずで、神様に対してもあれをして差し上げたいこれをして差し上げたい、その想いに突き動かされて常に与えるモードなのだろう。私達が堕落人間の位置とは一線を引いた祝福中心家庭であることの実感は、どんなに困難な状況にあっても、そうであればあるほど御父母様をより慕い、より何かして差し上げたい想いで満たそうとする意志を備えていることだろう。訓読会の様子が流されている映像を前にし、映像であっても並んで座られておられる御父母様に対しながら、何とも言えない懐かしさと慕わしさが内に溢れ出して目頭が熱くなるその自分こそが、申し訳なくて悔い改めに至ろうとさせる私自身だろう。その衝動に私の全てが包まれ、私自身が愛の出発点になれれば、この私という実体は堕落圏の壁を突き破って解放される。私の周囲でせめぎ合う困難という名の霊的暗雲は、私を試すと同時に私を訓練し強くしてもいる。困難が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、私は慕う力を強くする。慕う力を強くすることで数次元を越えた先にある御父様と同じ心情圏に飛翔できる。心の余裕が無くて散らかったままの部屋に身を埋めながら、目にしている味噌も糞も一緒の光景が今の私の内なる光景でもある。今日は少し片付けながら内的な整理もしなければならない。困難に押し潰されるのではなくて、困難を触媒にして新たな世界を創造していくのだ。その気概を持って今日を掻い潜る。

2010年9月3日金曜日

今日の想い 206

み言葉の中に、真の愛の中ではどんな病気でも治ると言うのがある。家庭の中に病が入り込んでいる私に取って非情に重いみ言葉だ。それは家庭の中に真の愛がないと言うことを意味している。病に沈んでいると言うことは未だ堕落圏を抜け出せない現実があると言うことだ。堕落的思考であり堕落的感覚であり堕落的行動のままなのだ。その事を指摘してその意味を理解するようであればとっくに病は遠ざかっていたことだろう。今の状況では指摘されること自体に反発感情を生じさせる。病に対して受動的な態度しか取ることができない。直りたいという思いが強ければ強いほど処方された薬に頼り安静を第一としてしまう。そのような対処する意識には受動的なものしか見出せないだろう。能動的な意志で病に対するには、覚悟と決意を差し出す必要がある。御意であるなら生涯をこの病と付き合い、命を縮めることも辞さない覚悟と決意を差し出す。健康な身体で果たすべきみ旨が私にあるなら良くなって当然であり、病に沈むことが御意であるなら敢えて良くなりたい執着の思いは邪魔でしかない。私はその想いで清平に行った。生きてみ旨を果たすのが御意なのかこの病で死ぬのが御意なのか、はっきりさせる為に行った。40修三日目に激しい動悸が止まらず死の淵を彷徨いながら、最後の覚悟と決意を差し出した。私は私なりに病に対して能動的態度を取ったつもりだ。今の妻に私の証しは私にしか通用しないという壁を立てている。妻が良くなり元気になってくれることはその通りだけれど、それ以上に夫婦としての魂の一体化が未だ為されていないことに悲しみを覚える。慰めあい労わり合うことの方を妻は望んでいることは解るけれど、そんな表面的なことで魂が一体化されるとは思えないし、真の愛がそこに介入されるとは思わない。真の愛が、愛と聞いてイメージする愛とは異なるものであることを薄々とは感じているけれど、その一面として堕落人間に取っては厳しく過酷な要素を含んでいる。為に生きることが安逸な場所で施しを与えるようなことではなく、犠牲的な位置で更に自分の足場までも与えることであるなら、我々が思う愛のイメージを超えている。

2010年9月2日木曜日

今日の想い 205

店にいれば、店のいろんな問題が店の中に発生し続け、店の内側に問題として吐き出されることが店として生き続けている証しだろう。しかしその内的排斥物を蓄積していけば、体内毒素が排出されず留まって敗血症を起こすように、店も問題に押し潰されて瀕死の状態になっていく。だから店を運営していて毎日の様に生じる歪をどう対処していくかが店の健康状態を決める。店として機能させる為にそうであるように、人間として生きることはそれ自体が身体に不利な毒素を発生させているし、身体に取っては消耗なのだ。妻が腎臓を患って初めてクレアチニンという筋肉疲労で生じる物質があることを知った。腎臓病患者であれば誰でもこの数値を気にしている。腎臓が健全であれば生きることで排斥されるこの疲労物質が尿や汗で排出されるのだが、腎臓を患うと血液をろ過できず体内に留めてしまう。物質肉体がそうであるように、人間としての心魂に於いても、健全である為には魂に貯まる疲労要素をそのままにしては置けない。魂をろ過する役目が必要であり、み言を戴いた私達はみ言による正しい思考が魂を健全なものとする。正しい思考で健全な魂が宿るのは、正しい腎臓の働きが健全な肉体を保つのとリンクしている。腎臓は肉体維持の為の思考の働きをしている。体内の変化を感じて対処法を探しているのは肝臓であり腎臓だ。肝臓が感知し、腎臓が考える。会社に於いては経営者がちゃんと目を行き届かせ、判断し対処することが、会社に取っての肝腎機能がしっかり働いていると言うことができる。では家庭に於いて健全であるために働く存在は何なのかと尋ねてみた時に、自ずと応えは見えてくる。母の位置でしっかりと状況を把握し、それを受け取って父の位置で思考し判断する。一体化すれば逆も在り得るが肝腎機能がちゃんと働いていることが家庭維持に必要なのだ。しかし個々の存在が自己完結的に存在するようにはなっておらず、必ず合目的的に存在することで、即ちより大きな、より公的な目的の為に存在しない限り存在が否定されてしまう。店に於いて問題が山積し頭打ちになるとき、より大きな視点に立つことで解決されていくように、家庭に於いても、そして私自身も、様々な問題を前にしてより大きな視点、より公的な視点に立つことで正しく見つめ正しく対処することができる。私に本心が働くように、家庭に家庭の本心が働き店や会社にも事業体としての本心が働いているかを見なければならない。

2010年9月1日水曜日

今日の想い 204

何とも言えない焦燥感を味わいながら八月を送ろうとしている。何もかもが頭打ちの状態で、四方を見えない壁で遮られているようで、こう言う時、取り敢えずは流される儘にされているしかないのかも知れない。もがいてどうなるものでもない。吼え続けても届かない。私自身はこの状況の中でどうしたいのだろうか。逃げたいのだろうか。それとも弱い自分を立て直して闘い続けることを望んでいるのだろうか。この状況を甘受しながら、何をもって勝利と言えるのだろうか。ひとつの結果を私がもたらすとして、天が取ることができ、私が勝利と実感できる内的様相とは何だろうか。目の前にある結果としての外的な状況環境を、私の払うべき蕩減内容として、あるがままを容認できる自然体となることだろうか。そこに嫌気の感情や、恨みや、泣き言を言いたい感情を主管しながら、それを超えて余りある心情を受け取ることが出来るのだろうか。外的解決策も含めて、あらゆる可能性を並べてみても、どれひとつ希望の光を発するものを今は確認できない。確かに今までは逃げてきた。逃げて避けることができ、事実避け続けてきた。あと数年の歳月を残してもはや逃げ惑うことができないことが、堕落の魂としては災難であり、本質の自我に取っては大きな恩恵なのだろう。暗いトンネルの中に入り込んでいることだけは認識できる。何処が入り口だったのか定かではないし、勿論差し込む光も無ければどの方角に出口があるのか解りもしない。今こそ、本当の意味で御父様が必要な私になるのだろう。上辺だけで慕い侍っていた私が、本当の意味で御父様の心情圏に超えて行くのだろう。