2011年5月31日火曜日
今日の想い 314
昨日を生きた私と今日を生きる私が同じ私だと誰もが思っている。私の中には私という一存在だけが存在し、他の人格も私の中にあるとは誰も信じない。認識できるものだけが存在し、認識できないものは存在しないという立場を取るのが、大方の現代人の在り様だ。私という自意識が肉体の奥深くまで強く浸透しているので、私という存在をそれ以上に融解させたり分解したりすることは好まず、私の中にまで入り込もうとし、かかわろうとするものに関しては本能的に排斥する。しかし本質的な宗教はそこにメスを入れようとするし、それ故になかなか受け入れられることはない。私という存在はいくつかの意識の集合体だという言い方は奇異ではあるが決して間違ってはいない。役事を通してどれほど私という存在が純化されたかは計り知れないけれど、私という全体意識の中にへばり付くように存在している多くの霊がいる。霊はそれぞれにおいて意識だ。私の中にうごめく多種多様な意識を感知できれば、大母様が表現されるように蟻の卵のように隙間無くへばり付く霊を霊視できる。多くの霊が憑いていると言われて、私の意識外に霊があり見出そうとするけれど、私が私と意識するその中に、化学反応して一体化して区別できないほどに私自身となっている。統一食口は祝福によって、私という意識の集合体の根幹に御父母様に繋がる霊を埋め込むようにして戴いている。人間が堕落の血統から逃れられなかったように、祝福を戴いて血統転換された者は御父母様の霊を私から排除することはできない。それは祝福という成約の秘儀がもたらす歴史的天宙的偉業であるけれども、私の中の堕落的意識からすれば恐ろしいことでもある。御父母様を慕い侍る私になる為にどれほどの戦いが内面に繰り広げられるかは、食口であれば誰もが経験しているし未だその戦いの中にある。侍儀の歩みとは戴いた御父様の神霊を意識の中心として歩むことだ。前日と次の日の運勢的な状況や内的な状況がこうも違うのかと思えるときがあるけれども、そんな時に限らず霊は常に出たり入ったりしている。特に今の新しい天宙の創造過程では、かせが外され霊と霊との繋がりが緩められて、昨日決意したプラスに対し、今日は既に相対する霊のマイナスが引き寄せられて意識が変化し、状況が百八十度変貌する場合がある。勿論その逆もある。昨日の私と今日の私は明らかに違っている。今日には今日の昨日に捕らわれない異なる私を生きている。その期待感が私の中の神霊を育てる肥料になる。
2011年5月29日日曜日
今日の想い 313
私達の生は御父母様の中にある。御父母様の愛の中で私達の生は繰り広げられている。生きているという中で御父様に出会ったと言うのは、地上的な説明では理屈が通るのかも知れないが、天的な意味での出会いの本質は、出会いの一点で私の生と御父母様の懐(ふところ)が交差し、入れ替わっている。ちょうど死の門を通って、私の内面が外界としての霊界の現実になるように、内が外になり外が内になる。御父母様の無限なる愛の懐が私の生を包み込んでいる。孫悟空が空の果てまで行って見つけた柱に、自分の名前を記したことを得意げに話したはいいが、柱はお釈迦様の指だったという話がある。所詮お釈迦様の手のひらの中で遊ばされていたということだ。私がどれほど教会を嫌い教会から離れたとしても、この世の堕落的事柄に没頭して縁を切るとしても、思い浮かぶあらゆる悪事に手を染めるとしても、それでも御父様を否定することはできない。私の体の一部が病に冒されるなら、その部分を必死で直そうとするだろうし、指に小さなトゲが刺さっただけでも心安らかではおられない。病んだところを切って捨てればそれで済むような話ではない。それを思えば私の痛みが御父母様の痛みであるし、私だけでなく全ての人類、天宙全てが御父様の体のようなもので、存在全ての痛みを抱えざるを得ない。私の生は私の自由意志のままに反乱を起こせるだろうし、み旨に反逆し得るだろうが、そうなれば御父様の痛みは私の生ゆえにますますその度合いを増すことは明らかだ。だからといって決して私を捨て去ることはできない御父様だ。私は既に御父様の一部になってしまっている。犯した罪の大きさに自分を許すことができず、帰って来れない兄弟がいる。私のように何の実績も無く、できるだけ目立たないように影を潜める兄弟がいる。だけれども私は敢えて言う。抱えた罪の大きさが御父様の痛みの大きさとなって、結果的に御父様の関心事であり心配事となっている。供える何の実績もない心苦しいこの想いが、ますます御父様の心情を結果的に引き付けている。栄光の位置で身を誇る者達の陰で、挫折の位置で身を投げ打ってでも差し出そうとする者達が支えている。私は私の位置で、私の接し方で御父様とひとつになる。私も私の生き様も、御父母様の懐の中にある。
2011年5月27日金曜日
今日の想い 312
心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。マタイ5:3 この聖句の心の貧しい人とは誰か。どういった人を指して心が貧しい人と言えるか。そして統一食口は心が貧しい人達だと言えるだろうか。経済的な意味で貧しいと、自分が当てはまると思うのは、生活苦を通して富への羨望が自分の中にあることを貧しいと言う。周りから見て生活が大変そうで貧しそうだと思っても、本人がそれで飽き足りているならそれは貧しいとは言えない。そのように心が満たされ満足しているなら心が貧しい人とは言えない。食口の一般的感情からして、どんな地上の真理をも越える真理を幸いにも受け取っているし、祝福も受け先祖も解怨し祝福もさせているので、自分に不安はなくそれなりに心は満たされていると思っている。でもそういった状態は心が貧しい人の部類には入らないだろう。既に足りていると思っている。求めよ、さらば与えられんとあるように、足りないと思っているから求めるのであって、足りていると納得すればそれ以上のものは求めないし入ってはこない。私は祝福の価値を本当に理解し、私の中で祝福の木が育っているのを実感として受け取っているかと問わなければならない。先祖解怨、先祖祝福の意味を本当に理解し、開放された彼らの喜びや彼らの協助を実感しているかと問わなければならない。私達は本当は足りた感情で満たされるのではなく、受け取れずに焦る思いで更に求めなければならない。事実、恵みの大半を地に落としたままであって受け取ってはいない。祝福の恩恵の全てを受け取ったのではなく、受け取ったことにした。み言葉を理解し受肉したのではなく、理解したことにした。そしてそれで満足していてそれ以上望もうとは思っていない。心の貧しい人とは、心霊における物乞いであり貪欲なまでの救いや復活の実感に対するこだわりだ。私達のどこかに目に見えないものは実感できないという観念がある。霊界に行ったときには実感できるのだろうが地上では実感できないし、いつまでも実感できないものを信じ続けることが絶対信仰だと思っている。甚だしくは、祝福はこの世的な意味での地上平和や内面の安らぎをもたらす為の方便に近いとさえ思っている。祝福を受けた、解怨した、御父様の指示に従った、そういったことにして自分で結論付けて変に落ち着き払っているのは統一食口とはいえない。貪欲なまでのみ言葉への理解、御父様に対する研究、本質への追及、サタンや神霊の見極め、自己の純化、そういった溶岩が噴出するような内面の追求心を抱えなければ霊的に生きているとはいえない。
2011年5月25日水曜日
自我意識から新たな意識へ
日の出を迎えながら、今日という一日が差し出す体験という名の贈り物への期待感に胸を膨らます。頬を撫でる心地よいそよ風も、朝日に踊る木々の緑も、小鳥たちの見事なさえずりも、意識の光を当てて堰き止めることも無く遣り過ごすなら、私はそれらに対しては死んだ者だということだ。受け止めなければ無いに等しい。受け止めて魂の反応を見るのでなければ、私の魂の活動は止まったままだと言うことになる。昨日と今日の違いを感情体験の違いとして内面に刻まれ、昨日には昨日の感情体験があり、今日には今日の感情体験としてはっきりと存在しているだろうか。こよみの数値の移動を確認するのみで、漠然と毎日を遣り過ごすなら、生きているといいながら実は死んでいる。死の門をくぐらずとも霊的には死んだままでいる。ぬるま湯につかったままで私の意識が骨抜きにされるくらいなら、煮え湯を浴びて私の意識が叩き起こされる方がいい。主がモーセに命じられたことは、私であるという方が私をあなた達に遣わされたと民に語ることだった。私という自我意識の目覚めを喚起したことは歴史的なことだった。以前には地上に無かったイエス様が流してくださった愛を、人間が理解することができ受け止めることができる為には、自我意識の目覚め度合いが愛の理解度の根底にある。愛は対象がいて初めて流れるもので、対象の存在を認識するためには自我意識が目覚めていなければならず、自分のものだと認識しないものを相手に与えても愛は関与しない。そして御父様は私達の自我意識を更なる高次の意識へと意識ステージを高めて下さる。楽園から更に楽しい天国へと言う様な幻想ではなく、自我の担い手になった人間は後天時代において神霊を戴く新たな自我を担おうとしている。神人愛一体理想としての私がそれだ。多くを与えようとするなら多くを得なければならないし、多くを得ようとするならしっかりと意識する魂を働かせて受け取るものを多くすべきだ。私達統一食口はその可能性を十分備えている。今日という一日は受け取るもので満ち満ちている。喜怒哀楽に満ちた生きた感情体験が今日には今日の仕方で贈られる。御父様が語られるように、一株の草を見ても涙することができる私になれるほどに、神様が味わってこられた心情を私の心情として感情体験できる時代圏に入っている。
2011年5月24日火曜日
土地を考える
御父母様がヨーロッパの巡回を終えられて帰って来られた。ヨーロッパも様々な国に別れ、それぞれに国民性が異なるように、それぞれの土地にはその土地を治める異なる霊的存在がいる。日本にも土地の神として産土神(うぶすながみ)がそれぞれの土地に存在しているように、世界の全ての土地にもその土地を治める霊的存在がいる。どこに行こうが土地は土地だと思うかも知れないが、霊的見地に立てば土地の在り様は全く異なる。その土地土地を訪ねれば風土も異なり人間性も異なる。その土地特有のそれらはその土地を治める霊的存在の外的表れだと言うことができる。イエス様は公生涯の三年間、ガリラヤ湖辺りから死海辺りまで訪ね歩かれたけれども、御父母様は世界を巡回してこられた。真の父母として、人類の親として世界の人々を訪ね歩かれると同時に、その土地土地の霊的存在と関わりながら地球再創造の役割使命の側面もあったと思われる。御父様の移動は人知を超えて為されている。日本には特別な地球規模的使命があることを日本の土地形状を見ればよくわかる。日本は世界地図をギュッと圧縮したような形状をしている。九州がアフリカ、西日本がヨーロッパ、四国はオセアニア、中部地方がユーラシアで、フォッサマグナを挟んで東北が北アメリカ、そして北海道は南アメリカとなっていて、世界のそれぞれの地の象徴であり代表であるともいえる。それを考えれば日本が御父様の入国を拒むことの摂理への影響の大きさを幾らか理解できる。上記したことに習えば、今回の東北大震災は北アメリカの西海岸にあたり、何らかの影響がアメリカ西海岸にでることは予測できるが、起こることの背後には複雑にからんだ霊的事情があるために一概にこうなると言うことはできない。地形の輪郭や標高、緯度経度との関連性は、適当に蹴散らかしてできた凹凸ではなく、大宇宙との関連、更に霊界と霊的存在との関連性の上で全ては成立している。現代人が時間系列で刻まれた自己の体験の記憶を行動動機としているのに対して、古代人は土地系列で刻まれている霊的存在の記憶を行動動機としている時期があった。現代人は自己に縛られているけれど、古代人は土地とその土地の霊的存在に縛られていた。自己意識と異なる土地意識の在り様が理解されてくると、その土地土地に赴いたとき、その土地の霊的存在が提供するものを受け取ることができるようになる。四大文明も、現代の都市文明も、その土地であればこそ時代の霊と共に花開いたものだと言える。
2011年5月23日月曜日
今日の想い 311
イエス様以前には無く、これはイエス様が地上にもたらした愛であり新しい意識だと、溜息をつくほどに納得させられる聖句として、ヨハネ8:7がある。律法によるなら、姦淫の罪を犯したものは石打の刑に処せられる。姦通の現場を押さえられた女を民衆に教えているイエス様の前に引きずり出して、パリサイ人や律法学者がイエス様にこの女をどうすべきかを問い詰めたときにイエス様が口にされた言葉と行動がこの聖句だ。黙って地面に何か書いておられたイエス様は、あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよと口を開かれた。律法に委ねていた裁きをそれぞれの良心に委ねるように促された。外からの裁きを内なる原則(蕩減法)に裁かせたと言ってもいいかも知れない。良心に問えば自分が罪びとであることを認め、その場を去らざるを得なかった。一人去り、二人去り、そしてイエス様とその女だけが残った。だれもあなたを罪に定めなかったのかとの問いに、主よ誰もと女は応えるとイエス様は、私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはならない。と女に告げられた。周りの者にそれぞれの良心に委ねるように仕向けられたと同じように、女に対してイエス様御自身も罪に定めず女の良心に委ねられた。イエス様の前に連れ出された女がどんな状態だったかは描かれていない。おそらく恐れおののいていただけか、それとも開き直っていただけかだろう。二人だけが残ってイエス様に対した女はそこで始めて良心の声を聞く。身の危険を脱して大喜びのうちにその場を逃れたのではなく、重い良心の存在があることに目が開いて意識し、その蕩減を抱えることになる。罪を犯してはならないと言う言葉はイエス様の命令の言葉ではなく、良心の声に従わなければ良心があなたを裁くと女に念を押された、女への新しい意識の喚起と愛の言葉だ。私達食口の中に、イエス様がもたらされた新しい意識がどれほど備わり、原理やみ言葉を律法的な意味での裁きや善悪の判断に宛がうことに捕らわれ行動することなく、み言葉の力が私の良心のなかに浸透して、或いは良心を喚起して、良心の声、良心の衝動として行動できる私達であるべきだ。それがどんなにみ言葉を持ち出して他を判断するとしても、どんな人であっても他人の裁き手になるべきではない。裁きはその人の良心に委ねられている。
2011年5月22日日曜日
霊肉の橋渡しとしての魂体を考えてみる
人は、知情意の魂が体験して認識されたものをその人が認識した通りに霊的素材として蓄えている。地上界に於いて熱や空気や水や土が地上の素材としてあるように、霊的素材としての熱や空気や水や土がある。それらの素材は私の内面に熱素材として受け取るものや、空気素材や水素材や土素材として受け取るものがあり、主に知的活動の魂は霊的空気、霊的光の素材の蓄えに関わり、情的活動の魂は霊的水、霊的振動や音の素材の蓄えに関わり、意志活動の魂は霊的土、霊的数理の素材の蓄えに関わっている(この部分はよく見えず、こじ付けかも知れません)。真理を受け取れば霊的に呼吸できるし真理は霊の光としての側面もある。神様の心情を受け取れば霊的には水を得たようであり心情はメロディーやリズムの側面もある。み旨に関与すれば霊的に足を地に付けみ旨に関与することで霊的に創造と天国建設を為している。そしてそれは数理の側面がなければできないことだ。地上生活で内面に蓄えた素材は、死の門を潜れば私の内面が外面になり、そして受け取って蓄えたそれらの素材を集めて作られた霊的感覚組織が霊界認識をなりたたせる。私達が生きて地上界を認識できるのは、光の素材を受け取った光の組織としての目があるからだし、目は光から作られている。音の素材を受け取った音の組織としての耳があるからだし、耳の機能は音で作られている。そういったように人間の全ての感覚組織は外界に存在する素材で作られていて、光の王子としての目であり、音の王子としての耳だ。熱や空気や水や土を治める王子が人間の本来の位置だったのにもかかわらず、堕落によって治める位置には立っていない。目が目としての本当の役割をするなら受け取る感覚の背後にある霊的本質を見抜き、私の内面への関連性や共鳴するものを受け取り、よって感覚は今の唯物的な死んだ感覚ではなく生きた感覚になる。私の堕落的なものを清算し、心と体がひとつになるなら、私は生きた感覚の中で暮らす個体的地上天国だ。
2011年5月21日土曜日
卒業の日
三時から始まるというので少し余裕を見てアパートを出たが、案の定週末の環状線は混んでいて、更に学校に向かう高速の出口では青になっても車二、三台通過するのがやっとという状況で、構内のパーキング場に着いたときは既に始まる間際だった。会場から随分離れたところに回されて車を駐車すると、時間を気にしながらも妻と娘を急かして足早に会場に向かった。会場はアリーナなので観覧席に辿り着く長い階段を上がっていかなければならない。貧血の妻は足が上がらないようで後から押し寄せてくる足早な群れに急かされ障害になっている。それでも三十分も遅れて辿り着いたわりには今始まろうとしている時で、アメリカンタイムに救われた格好になった。背面にあたる正面一部の観覧席を除いて一周、下段から最上段までほぼ埋め尽くされている。ステージを正面に目にできるけれど位置的には最も遠い席に腰を下ろさざるを得なかったが、まあ何とか間に合ったということで良しとした。初めて大学の卒業式を目にする緊張もあって息子の晴れの姿を見ようと意気込んできたが、周囲を見る限り厳かな雰囲気とは程遠かった。みんな好き勝手に出入りして煩わしいし、スポーツ会場のせいなのかゲームでも見るような感覚で売店で売られているドッグやポテトフライをつまみながら談笑している。それでもスピーチが終わると惜しみない拍手と歓声で場内がどよめくのは何ともアメリカらしい。終始ざわついてはいたが、一瞬静まり返る時があった。皆が起立して国歌を清聴する時だ。静寂の中、卒業生の代表らしき女性がろうろうと国歌を歌い上げると会場は更に盛り上がった。学長なのか教授なのかわからないが祝辞が二、三述べられた後、卒業生が列を為してステージに上がり、頂くものを頂くとお辞儀をするでもなく足を止めるでもなくそのまま席に戻っていった。数百人の証書の授与も流れ作業で、これもアメリカ的といえばアメリカ的だ。その間歓声は鳴り止まず、口笛はおろかサッカー観戦のブブゼラまで持ち出して賑やかす始末で、なんとも感慨に耽る間もなく騒々しさのうちに式は終わってしまった。これがいいとか悪いとかという問題ではないのだろうが、私の見る限りでは卒業して社会人へという責任や重さを自覚するようなものではなかった。記念写真も早々に息子が使っていた寮の部屋を引き払い、お祝いを含めて家族で外食し、その後息子はパーティーに行くという。あまりいい気はしなかったがOKを出して息子を見送った。こちらでは学校を出るまでは親の責任で、後は子供の自由であるし子供の責任でもある。経済的自立は勿論のこと、人生観も何もかも本人任せで基本的に親がどうこうすることはない。親と私は違うというのが根底にあるから個人的であり家庭は疎遠になる。少なからず私の子供もそういったアメリカ的影響を受けている。こちらの普通の親は卒業させると一安心なのだろうが、私はこれからいよいよ安心できない日々を送ることになる。とにかく卒業だ。息子は一体何を卒業したと思っているのだろう。学業からの卒業、親のスネカジリからの卒業、親の束縛からの卒業、或いは甘えからの卒業、それとも過去の自分からの卒業。できれば社会に揉まれて悩んでほしい。祝福家庭の素晴らしさを、御父様とみ言葉の素晴らしさを、自分のなかに見出せるほどに悩んでほしい。そして自分の故郷、自分の魂の故郷は自分の家庭だとわかってほしい。寮から持ち帰った息子の荷物が、狭いアパートの部屋に足場もなく置かれているのを眺めながら、取り敢えずはこれも含めて内外のことを整理することだと思った。
2011年5月20日金曜日
今日の想い 310
世界会長御夫妻がどれだけ日本食口を証して下さることか。日本食口にとってその言葉がどれほどありがたいか、そしてありがたくもどれほど申し訳ないか、日本食口全体としてはそうなのかも知れないが、その中のひとりである私はその言葉を戴くにはあまりにも負債が多い。そして甘い水のようなその言葉が私の魂に染み入り、その味を覚えてしまって、もはや苦い水を受け付けようとはしないかも知れない。私は私の弱さを誰よりもよく知っている。もっともっと否定され、もっともっと自分を修めなければ、私の魂の弱みが直ぐにも顔を出す。だから手放しで賛美される言葉は、ありがたく戴いたその場できっぱりと忘れて、使命に生きる私を直ぐにも立て直さなければならない。どれほどお褒めの言葉を戴こうとも、道半ばであることは変わりないし、今までにも増して手綱を締めなおして取り掛からねばならないと更なる決意と覚悟を供えることだ。御父様は日本食口のことをよくよく知っておられる。我々を前にして話されるとき、大方は身が縮まって消え入りそうなほど責められるし覚悟と決意を迫られる。その合間合間にポロリと、押さえ切れない親心としての慰めの言葉を言葉少なに口にされるけれど、本心を垣間見せたことを悔いるように更に拍車をかけて責められるし迫られる。我々にすれば恐ろしい御父様が当然なのだ。恐ろしい御父様でなければ自分を追い遣ってここまで来ることは無かっただろう。私達の前で優しく慰労の言葉をかけられて話を終わる御父様であるなら、御心を図りかねてかえって気味悪いかもしれない。しかし世界会長から賛美の言葉を戴けるということは、それを受けても讒訴される条件はなくなったと言うことだろう。そこまでの内的基準にとどいていると言うことだろう。もちろん日本食口全体であって、私がその条件を全うしていないことはよくわかっている。日本食口の精誠が御父様に届いていることを証の言葉にのせられ、受け取る私達は更なる精誠を供える意志を差し出さなければ、その言葉を受け取るに相応しくないしその想いを蔑ろにすることになる。その意味では心地よい言葉ほど受け取り方は難しいのかも知れない。
2011年5月19日木曜日
今日の想い 309
復帰された70年代、よく言えば純粋で一途であるけれど、悪く言えば近視眼的で思慮の無い者たちが食口のうちの殆どだった。勿論私もそのひとりではある。私も三年も経たずに天国は出来ると本当に信じていたのだから確かにおめでたい。その当時、み言葉で言う天国の概念をどれほど理解していたのか怪しいものだが、それは今でも大して変わらないのかもしれない。天国はそのうちにやってくるものだと思っていて、だから待っているし探している。産んだ子供を抱く時、抱きかかえて授乳する時、女性は幸せの境地に入るという。漠然とした天国の認識より、こういった受け取る感情こそが実感として天国を捉えている。男性である私は想像の域でしかないが、それでも人生のうちで最も至福に至る時だというのは容易に納得できる。私自身も産まれた子を手渡されて始めて抱いたとき、柔らかくて暖かくて弱弱しく、保護を全面的に私に委ねている存在に対して、私の内から溢れる感情の何とも言い表せないその時の体験をいつでも内面に思い起こすことができる。この胸とこの手にその重みと感触を、この目とこの耳に動きと産声を、この鼻の奥に匂いを、少しの狂いも無く刻まれていて、いつでも思い起こすことができる。思い起こすたびに涙が流れ、暖かいものが込み上げてくる。愛する存在を包み込む時、愛する存在に与える時、その時に味わう感情こそが天国の気分に違いない。息子を抱き、娘を抱いたその時の感情のままに、家庭を包み、周囲の環境を包み、自然万物を包み、世界を包むなら、それは天国とは言えないだろうか。今日一日の全ての触れる存在に対して、全ての些細な出来事までも、その感情で包み込めば、愛の言葉を返し愛の花を咲かせるだろう。天国はどこかにあって探すものではなく、天国は私から築くものだと、受け取る愛、与える愛を見届けながら愛の花として咲かせることだと認識し始めている。
2011年5月18日水曜日
蛇を考える
旧約時代に於いては選ばれた者だけが霊界の高みに昇ることを許された。彼らは蛇と呼ばれた。ヨハネ3:14に、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない、とある。蛇を上げるとは蛇と呼ばれた者達のように、霊界の高みに昇り霊界を見ることができる人々に高める、と解釈できる。モーセは青銅の蛇を掲げて、それを見上げる民を旧約の救い、即ち霊形体の霊人体へ導き、イエス様の民は十字架に掲げられた人の子を見上げ、信じるものを新約の救い、即ち生命体の霊人体へ導いた。不信に陥るイスラエルの民に神は火の蛇を送られる。恐れる民に火に焼けない青銅の蛇をもって生かしてくださった。火の蛇は堕落させた昔の蛇を象徴し、青銅の蛇は天の蛇としてこられるイエス様を象徴している。蛇と聞くと生理的に受け付けず忌み嫌う感情に落ち込んで、永久に愛でる対象にはなりえないと思うけれど、それは堕落によって感情魂に刻み込まれたものが受け継がれてきて、その結実である私がそう感じているのかも知れない。堕落の張本人も蛇と表わされ、救いをもたらす存在も蛇と表わされるところに、罪や救い、堕落や復活への認識の、私の幻想を破る鍵があるのかも知れない。私の妻は蛇を含む爬虫類も嫌うけれど、虫という虫をことごとく嫌う。飛び交うものも這うものもとにかく嫌う。異常と思えるほどの嫌い様を眺めていると、そのことごとく排斥する感情在り様を柔らかくして、もう少し寛容になれれば、もっと楽に生活でき、もっとガチガチの身体も柔軟になるだろうにと思えるし、そういった排斥感情がますます病を作り出しているように感じるときもある。隠されていて見えない深層心理に、人間の本質の秘密が隠されている。情交という言葉には蛇が絡む姿が思い浮かべられるが、不倫であればそうであって夫婦間であれば何か別の姿であると言えるだろうか。堕落人間は蛇と聞くと、堕落の蛇のイメージは付き纏って消え去らないが、では天の蛇のイメージは受け取っているかというとそれもない。狡猾であれば堕落の蛇だが、叡智を備えればそれは天の蛇の在り様とは言えないだろうか。私達は忌み嫌って蛇という言葉すら私の中から取り除こうとするけれど、イエス様の言葉は天の蛇の言葉であり、御父様の昔の御名前には龍という文字すら入っている。御父様の揮毫された書を見れば天の蛇である龍が私の中に想起される。民族霊や大天使が龍の有り様で霊界に存在しているのを何かの本で読んだことがあるが、その存在を尋ねて霊界に足を踏み入れようとするなら、霊視者である蛇に私がならなければならないのだろう。魚に長く携わってきたので土用の丑の日ともなると一生懸命鰻をさばいたものだが、一見すると蛇と酷似している鰻を気持ち悪いと思ったことはただの一度も無い。その内面に於ける受け取り方の違いは何なんだろう。
2011年5月17日火曜日
今日の想い 308
大通りに立ち並ぶ街路樹のひとつが、店の真ん前に立っている。ガラスドアの入り口を挟んで前面に大ガラス二枚を張っていて、ちょうど屏風絵を見るように外の景色を中から眺めることができる。店の直ぐ前にある腰ほどの高さの低い垣根の緑が下辺に描かれていて、少し距離を向こう側に隔てて中央に立つ木が左右に広がるように幹や枝をはっているから、上辺にも緑が描かれている格好になっている。日中の日差しの強い間は、視界に捉えながらもさして意識して眺めることもないのだが、早朝で車の通りもなく人影もない頃に、静けさの中で夜明けの光が柔らかく覆うと、大きな一枚の屏風絵を見るようにこのシンメトリーの景色がその存在感を見る者に示す。数年前に帰省したとき、親を連れて安来にある足立美術館に足を延ばしたことがあったが、見事な景色を額縁にはめ込んだように、柔らかな光に浮かび上がる日本庭園を大きな窓枠から望むことができた。そこまでの繊細さはないにしても、夜明けの柔らかな光が新緑の緑を映えさせ、時折吹く風になびかせ躍らせているのを、店の中から愛でることができる。オープンキッチンですしバーも置いており、目一杯テーブルを配置して80席にも満たない小さな店だが、緑溢れるこの前面の景色が客に開放感を与えているし、この景色も客の来店動機のひとつになっているはずだ。25年前の開店当初は、日本らしさを表わす為に障子スクリーンを張っていて外の景色は殆ど見えなかったが、今は内装もシンプルだけれども開放的な前面をうまく取り込んでいて、ここに寝泊りしたいと思うほど安らぐ。つくづく祝福を受けた御父様の店だなあと担当して二十年が過ぎた今でも思う。諸般の事情で御父様の願いに応えられず、縮小に縮小を重ねてきたレストランだが、残ったレストランだけでも力を合わせて御父様の願いに応えていくべきだ。今まで我知らず日本の食文化を広げる役割をしてきたことになるが、御父様の願いに応えようとするなら心情文化の担い手になり、真の愛が香り、真の愛を食させる店を展開していきたいと今一度奮起して思うべきだろう。このだろうという曖昧な表現に見るように、私の揺れていて定まらない内情があり、今の時点では現実問題として山積するリスクの方がみ旨への想いを超えてしまっている。店の後方の座席に座って、前面の屏風景色を眺めながら、み旨への思考を巡らす。早朝のこの習慣を私は霊界ミーティングだと思っている。この霊界ミーティングで今までの難局も乗り越えてこれた。これからも必ず知恵と力を与えられるだろうし、何とかして御父様の願いを形にしていきたい。
今日の想い 307
空を見る限り明るく日も照っており、雨が降りそうな様子は少しも伺えなかった。しかし買い物を済まして店を出ようとした時、日差しは差しながらも大粒の雨がしっかり降っていた。直ぐに止むかとも思ったが駐車している場所まで走り、買い物袋を急いで車の後ろに押し込むと、明るい内に行けるところまで行こうと思ってハンドルを握った。西に傾きかけた太陽から日差しが入り込んで来て、眩しいくらい明るいけれど、雨雲が去らない為か雨は降り続く。狐の嫁入りは長くは続かないものだが、日が差して明るいので今にも止みそうなのに一向に止まない。雨筋が日に照らされて光り、光りのすだれを分け入って車を走らせる。雨の日の運転は雨雲のせいで視界も悪く疲れるものだが、光る雨のすだれの中を運転するのはこんなにも楽しい。子供の頃に夕立に打たれてはしゃいだ、同じ気分が蘇る。それなりの年恰好になっても、感情の記憶として残っているものは半世紀を越えても何の陰りもなくプレイされる。感情魂という媒体がスーパーコンピューターを優に超える記憶を保持している。霊界の入り口で、魂に刻まれた人生の全ての記憶が解き放たれてプレイされるのを誰もが経験する。記憶として残っているものが偶然の連続の中でランダムに刻まれたものだという認識があるだろうけれど、感情を伴う記憶のひとつひとつは、偶然でもなくランダムでもなく、生きることの意味をどう捉えるか、何を信じ何を思考、感情、意思の基としているかで受け取る記憶を選んでいる。同じ状況、同じ風景の中に置かれても記憶はひとりひとりで皆違う。日の光が強く差し込みながらも雨はますます激しくなり、私の感情も高揚してくる。車が跳ね上げる水煙と、雨脚が飛び跳ねる激しい動きに、普段は動きのないものとして受け取る光が踊っている。激しく光が踊っている。光が歌い踊るのを受け取ることができる、そういう時代圏に入っているのかも知れない。
2011年5月16日月曜日
今日の想い 306
御子女様たちが御父母様の息子娘であるように、私達も御父母様の息子であり娘だ。血で繋がれた因縁だけが全てであるなら、私達に救いはない。私達の救いは御父母様と呼ぶことができ、血で繋がれた息子娘以上の父子の因縁、親子の因縁を築いて行くことができるところにある。御父母様との関係において、御子女様と私とは地の道理によるなら違いがあるだろう。しかし天の道理によるなら、御子女様も御父母様の息子娘であるように、私達も御父母様の息子娘であることは明白だ。地の道理が主体か天の道理が主体か、或いは地上の道理が主体か霊界の道理が主体かと言うときに、地上の道理は主体的な天の道理の中に含まれるのであり、逆の論理はありえない。だから御父母様と御子女様と私達という三者の遣り取りのなかで、地上的な事での遣り取りなのか霊的な事での遣り取りなのかを混同したまま、その関係性を把握することはできないだろう。だから御父母様が認める私の位置が正しく認識され、正しく内的霊的な目を見開けるようになった分だけ、三者の関係性は把握できる。だから今回の様々な問題も、血で繋がれた因縁に関する道理を霊的な因縁、霊的血で繋がれた因縁(心情因縁)にまで持ち込んで、善悪の判断基準、裁きの道具にしていることが問われていると思う。御子女様に対してカインとアベルの位置を明確にされ、一連の事件を共産主義の横暴だと口にされる御父様の真意を汲み取る必要がある。メシヤ、万王の王、真の父母という言葉は天の言葉だ。特定の食口が御父様のXDAYを考慮してなのか、袂を分かっている方達の誰に付き従うかを準備し行動しているのは、地上の道理に合わせているのであって、そこに天の言葉は無視され天の位置を考慮してもいないし天の道理に従ってもいない。そこには血で繋がれた因縁だけが彼らの救いであり、内的霊的繋がりや生命は存在しないと認めていることになる。こう言うと、御父様が血統を重要視されておられるのを否定するものだと言う者がいるが、そう言うのであるなら私達は血の因縁による堕落の血統から永久に逃れることはできないだろう。祝福の権能すら否定している。教会内の問題は決して喜ばしいことではないし、御父母様の心痛を思えば遣り切れないが、全ての起こる事柄は霊的背後が表面化したものだ。それは私が眺めて気をもむだけに留めるものではなく、私の内面の表れでもあるし私の問題であるなら、この時にこそ御父母様との正しくも深い血の因縁以上の因縁を築くべきだ。正しく準備が為されてこそ正しく2013年を迎えることができ受け入れることができる。
2011年5月11日水曜日
今日の想い 305
私という存在を生きている。しかし私という存在を生きているにもかかわらず、私という存在は不可解極まりない。眺める私の体は宇宙の叡智のかたまりに違いないけれど、この体の中にいる私は不完全であり不可解そのものだ。次から次へと浮いては消え消えては浮く低次元の衝動、整理されない思念、喜怒哀楽のはっきりしない感情、それらの捉えようのない内的活動の中に自分らしいものをひたすら探そうとするけれど、見えない背後に操られたものばかりで、そこに自分はない。うつろい漂う私ではなく、祝福を戴いてしっかりと根を下ろした私がいるはずだが、時として迷い込み見届けることができずにいる。外界への働きかけを止め、内に引き篭もる怠惰な無気力に堕とされたままでは事実上私は死んでいる。それは俗に言う基準が下がった状態だが、本来そこでこそ意志を働かすべきだ。停止状態からギアを入れようとすれば、相当の意志力が要求されるが、信仰生活をしているのであればどんな些細な事柄であっても何らかの条件は供え続けている。それは食前の短いお祈りかも知れないし、パラパラとめくるだけのみ言葉への接触かも知れない。最低限の信仰的行動があるなら完全に止まりきることは無いのかも知れないが、いつまでもそんな状態では、明日を切り開いていく神の意志で時間は瞬時毎に作られながらも、それに見合う発展的な事柄を私が供えない限りは、時間を生きる存在としては相応しくないだろう。私という存在を生かし続けるために莫大なエネルギーが費やされている事実を踏まえれば、不完全であり不可解な私はあまりにも負債が大きすぎる。しかし縮こまる私に対しての内面の奥からの声は、私を子だと言って譲らない御父様が宇宙の莫大なエネルギーを費やすに足る存在だと言い張っておられる。今日には今日の、真の父母に繋がる真の私への開拓が自分には課せられていると思うべきだ。内面に於いて真の父母を見失わない為に訓読会がある。み言葉の灯明を明るく照らし、決して真の父母を見失わず迷うべきではない。今までは御父様が、御父様の位置から、いろんな誘惑の掛け声に立ち止まったり首を突っ込んだりして彷徨い歩いていた私をわざわざ訪ねて下さったりもしたが、これからは私が、私の意志をはっきり働かせて、真の父母様にしっかり付いて行くべきだ。
2011年5月8日日曜日
愛の星
熱の星から光と生命の星へ、光と生命の星から魂の星へ、魂の星から地球という愛の星へ。地球は熱の状態から熱が光と生命を呼び起こし、魂を混入されて愛の星、愛の存在となる。与えて、また与えて、さらに与えて与え尽くしたい神様の愛、真の愛が存在に、空間に、全てに遍く偏在する。全宇宙の愛の核である地球、愛の核の中心的核である人間、中心的核のそのど真ん中に御父母様がおられる。御父様の在り様を相続するなら、私自身が与えて与えて与え尽くしたい愛の衝動に燃える存在になるはずだ。私は対象へ向かう想いの熱い衝動を内包し、衝動が大きくなって爆発すると霊的光と霊的生命が私からほとばしる。それはあらゆる対象の魂に働きかけ対象の魂は変革する。そうして対象の魂は新たな愛の存在になる。真の御父母様を根源とする真の愛は、核分裂のように一瞬にして地球を席巻する。地球が愛の星として完成すれば宇宙はその様相を一変させる。一変した宇宙の中で地球は踊る。地軸を移動させ、南と北を入れ替え、今の自転を逆方向に元換えしながら地球は踊る。真の愛のリズムに酔いしれながら踊れば、人類も地表の存在もそれに合わせて踊らざるを得ない。喜ぼうが戸惑い躊躇しようが踊らざるをえない。人類の大移動は悲壮感を漂わせ嫌々ながら行うものではなくて、真の愛による新しい世界の夜明けを喜び、小躍りしながら行うものだ。真の愛による新しい世界は新しい場で出発する。神様が用意されたその地から終末を超えた人類は新たな世界を出発する。その過程に於いて、意味も分からず眺めていた、御父様があらゆる儀式として打たれてこられた布石のひとつひとつを、初めて実体的に見ていくことになるだろう。御父様の勝利圏を、霊界の動員を、神様の具体的働きを、人類は目の当たりにすることになるだろう。地球を光と生命の星ということはできたが、愛の星だというには躊躇された。しかし新しい夜明けを迎えれば、愛の星地球といえる存在になる。
2011年5月7日土曜日
今日の想い 304
朝任地に下ろされて、小便するよりも何よりも先ず三軒飛び込むことがその日の勝敗を決定する。先ず気持ちを整え決意する為にお祈りでもして、等と思っているとついつい時間を奪われ、そのうちに気勢も奪われてしまう。お祈りは飛び込みながらでも出来る。お祈りするために人気の無いところを探していたら、探しまわっているうちにヤル気は失せて、そのまま一日を終えたことも度々あるし、先ず用を足してからと思っていると用を足しながらヤル気も流れ出てしまうようで、その後一日中公園のベンチに腰掛けてボーっとして終えたことも度々ある。何とも基準の低い話ではあるが自分の基準はその程度だ。でも高校を卒業してすぐ献身し、やる事と言えば万物復帰ばかり毎日明け暮れていたので、こうするとこうなると言う大体のコツはわかっていた。何年経っても同じことが延々と繰り返された為にさすがに疲れ、全国の流れが経済復帰になだれ込む頃には心霊の枯渇が表面化してきていた。しかしいつまでも戸を叩いて訪ね続けるのがみ旨だと思っていたのが、いつの間にか向こうから訪ねられる立場になっていた。レストランはこちらから訪ねるのではなく、向こうから人が訪ねてくれる歩みだ。だから相当の決意を備えて飛び込まなくても、どんなに心霊が下がっていても有難いことに向こうから訪ねてくれる。やっていることは変わっても、やはり万物復帰で鍛えられたセンス(?)とコツはレストランでも十分活かされていると思う。レストラン業務は毎日夜遅くまで続き、零時を越えて終えることも珍しくないのだが、だからといって日が十分昇った頃に起き出せばその日は奪われてしまう。朝を制する者がその日を制するのであり、いろんな知恵も気付きも運勢の流れも、朝を奪われたら奪われてしまうように思う。人事を戴いたら三日のうちに動くという鉄則も実に的を得ている。時間が経てば経つほどに、幾らでも心の隙間から歩みを妨害する思考や感情が入り込んできて、見る見るうちに意志を殺がれて意志する魂は抜け殻にされてしまう。だから命を受けたその一瞬を奪われないように、日々の歩みで訓練しておくことだ。いつどのような形で御父様の直接の命が下されるやも知れない。死ねと言われれば死ぬ覚悟を一瞬で差し出す私になれるかどうかが、御父様と出会い祝福の血統圏に入れて戴いたことが実り、み旨で苦労したことが報われる天国と、結局は正しい出会いが成せなかった結論を出さざるを得ない地獄との狭間に立たされることになる。2013年のD-DAYを、兄弟達はどう想像しているのかわからないが、相当の覚悟を迫られるものであると自覚しておいたほうがいい。鶏が鳴く前に三度否定してしまったペテロの位置を復帰し、罪を犯しても最後にはイエス様を庇ってイエス様と共に逝った右の強盗を越えて余りある決意と覚悟を差し出す統一食口になるべきだ。
2011年5月6日金曜日
ルツ記
ルツ記は旧約聖書の中で最も短い書だ。飢饉のためにベツレヘムからモアブの地に移り住んだエリメレクの家族は、二人の息子を失い、更に夫をも失ってしまい、そうしてナオミと息子の妻ルツだけが残る。聖書解釈では困難な中で生き延びる姑と嫁のお手本的な話だという解釈が最も多い。古今を問わず嫁姑間の問題は必ずと言っていいほどに起こってくる。嫁を思い遣った義母ナオミの説得にも関わらず、健気にエリメレク家の人間として最後まで務める意志を差し出した嫁の鏡だと評され、嫁の手本として広くルツ記とルツの名は知られているけれど、勿論その要素もあるにはあるが、決してそれだけのことで旧約聖書に載せられたわけではないだろう。聖書の記述で一貫しているのは、人類始祖以降、誰それの息子誰ベエ、その息子誰男、というようにイエス様までの血脈(ナタン系、ソロモン系と分かれることはここでは触れない)をずっと記していることだ。選民イスラエル民族の血統の重要性が聖書全般に貫かれている。天皇家の万世一系を謳う我が国日本は、連綿と続いている天皇家の血筋に日本人としての根源があるのであって、それを否定して更なる根源に繋がる術があるのならそれも善しとされるのかも知れないが、他の思想のいいとこ取りをして表面的気分で否定するだけなら、痛い目に合うどころか恐ろしい目に合うだろう。祝福の血統は言うに及ばないが、この世に於いても民族の根源である血統は私という存在の存在意義でもある。今の日本人はそれをわかっていない。天皇を否定することは日本人である私を否定することだ。異邦人であるルツは選民イスラエルの重要性を霊的に把握させられている。ルツがどういう背後の関係で霊的認識にいたったのかは定かではないが、姑ナオミの嫁への計らいも深いものがあったと察せられる。選民の一族の血脈を途絶えさせない為、姑ナオミと一体化し、姑ナオミの願いに犠牲的に応えている。そしてナオミの願いのままにエリメレクの一族にあたるボアズに貰い受けられてオベデを産んでいる。オベデからエッサイが、エッサイからダビデ、そしてダビデからイエス様までの血統が、異邦人であったルツの想いが犠牲的に投入されたことで繋がれていく。自分の国に帰るように姑ナオミに説得されたときのルツの返した言葉が、どうしてルツ記が聖書に加えられたのか、その意味を最もよく示している。あなたの行かれるところへ私も行き、あなたの住まわれるところへ私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。化学反応に触媒の役割が大きいように、血統圏のなかに異邦人がどういう役割を供えているか、メシヤに繋げる大きな役目を果たしたルツの精誠が、内的霊的に、更に感情に於いてどのようなものであったか尋ねることは、御父様が私達に願われる精誠の在り方や意味を知る大きな手掛かりになるはずだ。
2011年5月5日木曜日
今日の想い 303
地球のどこにいても御父母様の御様子を見ることが出来るのは、今の時代の恩恵であるとも言えるし、地球上の全人類が同時的に御父母様の御様子を見れるようにする為に技術が進歩したとも言える。スクリーンに現れる訓読会の様子を見ながら、御父様の霊的御言葉の難解さは、理解するに何とも口惜しい思いがするけれども、御写真では受け取れない御父様の表情を目に出来ることだけでも十分にありがたい。み言葉そのものは非常に大切だけれども、言葉の合間合間にされる仕草や報告を聞かれるときの殆どの動きを止めて集中された様子、時に珍しく暫く言葉を止められて自らに尋ねる風で頷かれる様子、全体を見回される様子や特定の人に問い尋ねられる様子、その瞬間毎に御父様の息づかいを共有し、同じ呼吸同じ心拍数に合わせながら御父様の心情世界に振幅を同調させる。そこに御父様と子である私との一体感が存在する。日々の生活もその一体感、同じ心情圏の中で繰り広げられれば、思いが自分の思いではなく御父様の思いだと感じられる瞬間が度々ある。歩み始めた初期、生き別れた親子のように御写真だけが唯一の親子の手掛かりで御父様が夢に現れるのをひたすら待ち望んだ時期もあったけれど、壇上に立たれる御父様だけではなく、訓読会の御様子や日常の御様子までも触れることが出来る今は、私達はどれほどの恩恵的立場にあるか知れない。まさに生活を共にして歩むことが出来る。しかしその手軽さの反面、御父様を求めて止まない衝動を今の私達と教会は初期と比べて弱めているのも感じる。決して私達が御父母様のステージまで上り詰めたから出会えたのではなく、御父母様が私達のステージまで降りて尋ねてこられたから出会えるのだと言うことを忘れずに、御父様の中の聳え立つ真の愛の意志を受け継ぎたいと思えるようになることだ。仮の出会いではなく、頂上でこそ御父様との本当の出会いが為される。
2011年5月2日月曜日
今日の想い 302
日本は高度成長以降、良くも悪くもメディアが生活観念に影響を与えてきた。特にテレビは色鮮やかな映像で歌い踊る華々しいイメージを視覚に焼付け、人間の奥にある本質問題に覆いをかけ表面的であり感覚的な夢や希望を人々に追い求めるようにさせた。それを追い求めていく過程であたかも本質問題が消え失せたかのような錯覚を覚えている。未だに多くの日本人が根源的存在に対して否定的で、唯物的進化論を信奉し、神様はメルヘンの世界の住人だというように人間の頭の作った想像物でしかない。真面目に神様について触れようとすれば心の中で既に失笑している。しかし本質問題を無視して覆い隠せば隠すほど、さらに問題は大きくなっていく。日本全体を見れば、ここ最近精神的闇を抱えて病に臥したり自殺したりする数は確実に増え続けてきた。どんなに上っ面を整えても人間の中身は変わらないように、CMやバラエティーに出てくる演技されたものをごく一般人間が味わっている幸せや喜びと思い込んでも、現実世界に於いて自分で演技して自分を騙し続けることはできない。メディアによって刷り込まれた世間一般の幸せな人間像と自分を比較し、あまりにもかけ離れた自分と自分の境遇に落胆してしまうから、思いつめて自分を亡き者にしようと思ったりする。私はテレビ映像、特に民放こそが日本人の真実を見る目を失わせた元凶だと思っている。偶然にそうなったのではなく、明らかに視聴感覚を通して堕落させようとする意志が背後に見える。やむを得ない形で計画停電がなされているけれど、日本から一度テレビ放映が無くなって、堕落的刷り込みの垂れ流し映像をストップしてみたらいい。乾いた笑いを本当の笑いだと刷り込まれ、目によく作られた偽りの愛を本当の愛だと刷り込まれ、人間の本質を否定する思惑ばかりが見え隠れするアジテート満載の映像を遮断して、固く閉じられていた心の目を開く静寂の環境が全ての日本人に必要だ。機関銃のようにしゃべり続けるコメンテーターやタレントを見ていると、何かが憑いてしゃべらされており、誰も止めなければ糞尿を撒き散らすかのごとく延々としゃべり続けている。
2011年5月1日日曜日
今日の想い 301
私達は御父母様の息子であり、娘だ。そして子供に取って親のいるところが故郷であり天国に違いない。だから御父母様が居られるところが天国であり、既に私達はその天国にいる。心から御父様と呼び、御母様と呼べる私でありさえすれば、御父母様の息子であり娘であることは疑いようが無い。それは誰であってもどんな存在であっても、地上であっても天上であっても、私が息子であることは否定されるものではない。何処の誰がお前のいるところは地獄だと言い張ったとしても、御父様御母様と呼ぶことができ、それに応えられて御父母様が実体でなくても想いとしてでも何かの形で訪ねてくださるところであれば、そこも天国に違いない。御父様が地獄の場に臨まれたとしても、御父様が行かれるのであれば地獄であっても天国だ。確かに未だ心を煩わす多くのことが周りにはひしめいている。心配もするし悩みもする。しかしだからと言ってこの場が天国ではないとは誰も言えない。問題のひとつも起こらなくて、ただの安らぎのなかで漂い続けるとするなら、そんな退屈な人生それこそ地獄だろう。遊園地のジェットコースターに好んで乗ってスリルを味わうように、人生という喜怒哀楽のジェットコースターに乗るために今生を生きている。石橋を叩いてでも渡らない自分ですら、それなりの紆余曲折の変化の中で神様の愛を実感したいという抑え切れない衝動でこの地上にやってきた。つくづく御父母様に出会う為に幾千年の満を持してやってきたのだなあ、という実感が心のどこかにある。多くの食口はその思いを否定しないだろう。人類始祖以来、延々と続いてきた血統の中でどれだけ御父母様を待ち焦がれたことか。その歴史的想いが私の血の中に流れている。御父母様に出会えたことで歴史的血統的仕事を為し終えたと安堵するのではなく、出会いが唯のすれ違いにならずに父子の因縁、親子の因縁として離れるに離れられない出会いとすべきであり、出会いを骨髄にまで刻印する為には、失礼な言い回しになるけれどある意味、御父母様を最大限利用する私達となるべきだ。御父母様の価値も意味も知らない者からすれば、私達は利用されているように見えるのかも知れないが、実のところ逆であって、私達が御父母様を利用している。息子だ娘だと押しかけていけば御父母様はその通りだと認めざるを得ないし、認めるどころか私達を愛さざるを得ない御父母様なのだ。
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