2011年11月29日火曜日

書信について

御子女様からの書信がメールで届いた。全世界の兄弟達に自分の正当性を丁寧に、そして力強く説明されておられる。この書信を受け取ることで、一体私達に何を期待しておられるのだろうか。状況と言い分を説明されて、正しく把握することを私達に願い、そして私達がそれぞれに判断すべきだと仰りたいのだろうか。無知な私達に、どちらの言い分に正当性があるのか判断して欲しいと言う事だろうか。その文面からは御子女様のどこまでも真っ直ぐな在り様が伝わってくる。曲がったことを許されない、清濁併せ持つというようなものではなく、受け取られたみ言葉そのままを御自分にも宛がい、私たちにも宛がわれる。この堕落世界に於いてその姿勢を貫くということは、余りにも困難を極めることは容易に察せられ、報告を受ける毎に痛々しい心持になる。堕落世界がそうであるように、教会の中にも醜いものはある。腐ったものもある。やってきたことを白日に晒して堂々と説明できることばかりかと言うと、口をすぼめるようなことも多々あった。私が堕落人間であり醜いものを内面に宿していながら、それを棚に上げて置いて、位置に立つ責任者に対してだけ非を追求することは私には出来ない。報告に尾ひれが付いて現状報告とかけ離れ、御父様の顔色を伺うのを第一優先され、政治的な遣り取りや駆け引きが為され、教会の中でさえ綺麗事だけでは済まないことは、年数を重ねれば兄弟誰でもわかることだ。あまりにも無知で、その高度な書信の内容を十分に理解することは出来ないまでも、誰も、そして恐らく御父様であってもこの書信の間違いを指し示すことはできないだろう。しかし書かれたその文面から想像される歩まれるその先には、共産党の自己批判にも通じるイメージが見え隠れしている。あまりにも真っ直ぐだからそこに許しが見当たらない。もし、私達の多くがその御子女様の基準に近付いていたとしたら、そちらの方が本道になっていたかも知れない。しかし御父様はそちらの道を取られなかった。清流よりは濁流の中に、敢えて舳先を合わせられた。それは多くの失敗も重ねた、醜い私達の存在を見捨てられなかったと言うことだろう。御子女様に犠牲を払わせる形を取ることで、私達を保護されたと言うことだろう。

2011年11月28日月曜日

血統を考える

人間にとって血統というものがどれだけ重大な意味があるかは、御父様が事或るごとに触れておられる。会ったこともないアダムエバが犯した罪をどうして後孫である私が引き継いでいるのか。血統ゆえだ。神様が救いの摂理をアダムとエバに限って為すのではなく、アダムとエバも含めての救いを罪を受け継いだ(受け継がせた)後孫を通して摂理される。それも血統ゆえだ。霊人の解怨や祝福は数多(あまた)の霊人ではなく、基本的に先祖を遡って為される。血統ゆえだ。もちろん私と言う存在があるのも血統を通して生命を与えられて存在している。血統を外れて別の方法で生命が飛び出てくる訳ではない。親であれ子供であれ、ひとりひとり別個の存在であるかのような認識を現代人はもっているけれども、根源であられる神様は、血統の中に生き続け、血統を通して引き継がれるものを霊格と言えるようなひとつの相対存在として認識しておられるように思う。人間は肉体の或る部位がなくなろうが全ての細胞がとっ変えられようが、たとえ顔が変わり体が入れ替わったとしても、人間の中の人格を変わらぬものとして認識している。そのように代々人間は移り変わっていっても、血統の中に息衝く人格と言えるようなものをひとつの霊格として見ておられる神様だと言うのは妥当な事だと言える。私が救われると言う場合、私個人の救いをイメージしているけれども、神様が人間を救うと言う神様にとっての意味は、堕落の血統を神の血統に復帰することを救いと言うのだろうし、個人が血統の流れこそが自分の本質だと感じ、個人の心魂が家族から氏族さらに民族を感情し、思考し、意志する心魂まで広がりを持つときに、神様が認識しておられる救い、本質の救いに近付いていくのだろう。マタイ伝22章32節に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」、、とある。無くなった者達であれば、神であった、という風に過去形にすべきところを現在形で話されている。その意味は血統に流れる霊格(私の造語です)を指しておられる為に、そういう言い方になるのだと思う。新約の救いは霊的なものに限られ、私が救われても子供は新たにイエス様に帰依する信仰を本人が持たない限り救われない。親が罪を許されても子供は相変わらず原罪を持って生まれてくる。成約の救いは霊肉の救いであって祝福の子女には原罪が無い。要するに霊肉の救いとは血統の救いであり、御父様がもたらす救いの完成は血統に流れるものの救い、過去(先祖)現在(私)未来(子供、子孫)に渡る救いであるはずだ。そういう意味で新約の救いと比べてみると、祝福を戴いたことが天宙的価値であることがわかる。

2011年11月27日日曜日

二世の親として

一世に取っては私が出会い、私が必要とし、そして私が望んで信仰の道を歩んでいる。しかし二世に取っては出会ったのは親であり、親が必要としているのであり、そして親が自分を信仰の道へと誘う、或いは勧め或いは強要する。自分も含めて一世の誰もが、二世が信仰の道へと向かうのは至極当然のことで、それについては信じて全く疑うことはなかった。それはひとつとして祝福二世は原罪がないと言うものであり、原罪がないから神様の願いを直接受け取る澄んだ心があって自ずとみ旨へと向かわせると言う思い込みだ。祝福子女は増えれば増えるほど生きた証しになるはずだった。まだ家庭をもっている者が責任者のみで少なく、御家庭のように祝福子女を育て教育する担当がわざわざ付いていたりした時期は、周りも王子王女にでも仕えるような接し方で二世本人の自覚もそれなりにあったはずだが、この世と何ら変わらない環境圏で、さらにみ旨で忙しかったり経済的な困窮も加われば、親の期待をプレッシャーとして背負いいろんな内的問題を抱え始める。今となれば祝福によって受けた霊的恵みがそのまま子女の心魂に見える形で影響を及ぼすことはないとわかるし、親が期待していた祝福の子女のイメージと現実は異なると言うこともわかる。描いて期待していた子女像が神様のそれとは異なっていたと言えるかも知れない。しかしみ言葉で培ってきた教会伝統を伝え、祝福家庭としての血統を繋いでいく使命の重さを知っている一世にしてみれば、期待はずれを悔やんでばかりも居られない。二世にみ言葉を受け入れさせ信仰を植え付けることにどうしても焦りが出て、過剰気味で余裕の持てない接し方になってしまう。山をも動かす信仰だと言っても、山が動かないことは良くわかっている。状況は悪くはなっても親の期待通りにはならない。そうこうしているうちに親も内的霊的に疲れ果ててしまう。我が家がそうであるように、多くの家庭がそんなところだろう。子供が祝福を受けてそれなりに家庭を築いている、そんな勝ち組には組み入れてもらえない疎外感や減少感。祝福の血統を繋いでいけないかもしれないという挫折感や恐怖感。ひとりの歩みでは知る由もなかった、家庭を持ち親となって初めて神様の様々な心情を味わっていく。実は親になって初めて通過する心情路程こそみ旨の本道であり、それまでの歩みは準備期間に過ぎない。神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従で歩んでこられた意味が親になってこそ理解できる。ふらつく子供であれば尚更、信じざるを得ないし、愛さざるを得ないし、結局は従わざるを得ないと言える。絶対的な内的位置に立たない限り希望を明日に繋げない。親としての神様の心情のひとつひとつを味わえることが、私が感謝だと言えるうちの最高の感謝だ。それは涙を流さざるを得ない感謝であり、心配で心が張り裂けそうな感謝だ。

2011年11月26日土曜日

今日の想い 376

御父様は真の御父様であり、御父様の愛は真の愛だ。その言葉は我々の仮定の言葉ではなく、私の真の親である御父様の宣言であり、それは神様が、この世の神サタンが、天宙が認めた宣言だ。その宣言ゆえに私は必ず救われる。確かに犯してはならない天法がありながら、図らずも自分の弱さゆえに厳しく言い含められた約束事を破ってしまうこともあるかも知れない。しかしだからと言って私の救いを断念されるものではない。み言葉を律法的に受け取り信仰上の取り決めを一義的なものとして私や周囲に当てはめ、救いに与る者外れる者と振り分けられる訳ではない。裁かれることで解決を見ない、私自身の問題、家庭の問題、二世の問題、教会の問題がある。溜息をつかざるを得ない現実が、積もり積もって山のようにある。どれ程み言葉はその理想を高く掲げていたとしても、問題が山積する現実の方が存在感があるというのが偽らざる我々の気分だろう。しかしそれらの問題が全て解決されてやがては全く問題のない世界が訪れるだろうか。さらに問題が解決されて気分が良ければ救われ、問題に振り回されて不快であれば救われないと言うことでもないはずだ。今は問題として認識されないものの中にも解決すべき課題があるはずなのに、それに対しては気分は不感症だ。律法的取り決めや信仰的快不快の気分或いは信仰的善悪感情といったものが食口の心魂の多くを占め、却ってそれが良心を見えないものにしている場合が往々にしてあると思う。旧約の律法に反したからイエス様は受け入れられなかった。新約的気分や雰囲気を害する者だとして御父様は迫害を受けられた。私達の信仰内容が成約だと言いながら、旧約的な信仰観、新約的な信仰観、或いは雑多な信仰観に固まっていて、神様が直接に働かれるはずの良心を見失ってはいないだろうか。良心が思考の対象としての観念ではなく実在であるように、真の愛も思考の対象としての観念ではなく実在だ。良心の痛みや喜びを現実として生き、真の愛が流れ込み満たされるのを現実として感じる私であってこそ、御父様の息子娘だと実感できる。

今日の想い 375

見えない障壁が私と対象との間にある。間にあって意思疎通の流れるのを堰き止めている。見えない障壁が人と人の間にある。間にあって愛の流れるのを堰き止めている。愛が自己の中で還流するだけなら、愛による一体理想は永遠に訪れない。夫婦がひとつになり、親子がひとつになるとき、家族としての一体理想が霊的な天国空間を創り出す。家庭理想には夫婦間の障壁も溝もなく、親子間の障壁も溝も無い。血流が体中を巡るように、愛の流れが十二対象愛の形をとって家庭理想という天国空間を巡っていく。この見えない障壁や溝を、見えないだけに障害だとは捉えていない。見えない障壁に囲まれた内側の溝の底で、見て触れる他の人間を景色のひとつとしか捉えられず、自然や万物のもろもろを生活の道具としか捉えられない。その愛情を覚えない内的距離の隔たりが、私と対象の間にある障害によるものだとは思っていない。障害の内的霊的な意味するところが解っていない。声も届いて見ればすぐそこにおり、手を伸ばせば届いて触れることができる。その距離の近さに惑わされて、内的な隔たりが、埋めることが出来ない深い海溝が、手を伸ばせば届くほどの間に横たわっていることを感知できないでいる。その溝を埋める作業をどれほどしてきただろうか。投入して投入したことを忘れ、さらに投入してさらに投入してきたことを忘れ、その、為に生きる意志を具え続けることで、私と対象の間に橋を渡し道を切り開こうとする。そうやって御父様と共に溝を埋め尽くすことに、平準化することに一生懸命になりながら、精誠を供えた者でしか味わえない真の愛の味がある。真の愛の味を覚えた者こそが本当の食口だ。愛は与えて忘れるという言葉には御父様の恨の涙が染み付いていて、このみ言葉が私の魂の感情部分を共鳴させ、我知らず胸が震えてくる。溝を埋めてきた歩みであったけれども、気付いてみれば埋めていたのは自分の足元であり、少しずつでも御父様の高みへと近付いていた。

2011年11月25日金曜日

譬えによるものと直接的な御言葉

マルコ伝の第四章にイエス様が語られた種まきの話がのっている。道端に落ちた種は鳥が食べてしまい、土の薄い岩地に落ちた種は根がない為に枯れてしまい、いばらに落ちた種は塞がれて実を結ばず、しかし良い地に落ちた種は育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。大衆に対しては譬えをもって話されたが、イエス様が一人になられた時、十二弟子を含むそばにいた者達がこの譬えについて尋ねると、種まきは御言をまくのであり、御言を聞くとまかれた御言をサタンにすぐ奪われる者、喜んで受けるが根がないので御言のための困難や迫害に躓く者、聞くには聞くが世の心遣い富の惑わし欲が御言の成長を妨げる者、そして御言が実を結ばせる者のことだと説明されている。比喩でもって話された言葉と聞くべき耳をもっている者に話された理性による直接的な言葉。ひとつはイメージを与えて感情に反応させようとされたのであり、今ひとつは直接的言葉による思考を刺激しようとされた。古代人から現代人のほぼ三分の二の地点にイエス様の時代は位置するが、古代人と現代人の両極を比べた時に意識の在り様が大きく異なっている。古代人はより霊的世界(限定された低次元の霊界)に偏り現代人にすれば彼らは夢心地のような意識状態であって、現代人のように思考したり醒めた理性や判断力と言った明るい意識は備えなかった。イエス様の時代、譬えで語ることが当時の意識段階に於いては必要だった。一般的に譬えの言葉を受け入れて理性の言葉に進む当時と、原理講論の論理的理性の御言葉を最初から理解する我々とは意識段階が異なる。どちらが本性的かというと現代人の意識だけれども、本性的であると同時に自由度も増して善にも悪にも取っ付き易い。譬えとして受け入れようが理性を用いて直接的に受け入れようが、気分的な感情に留まり、自己を納得させる思考に留まるだけで、み旨に生きようとする意志が発動されないかぎり良い地にまかれた種とは言えない。心魂の活動として知情意があるように、天の叡智と天の心情を私の魂の在り様としながら、それらが作用して意志としてのみ旨に向かう想いが発動されてこそ、真の愛がそこに流れ、さらにそこから流れていく。川の流れるところに木が育つように、真の愛が流れるところに生命の木は育まれていくはずだ。

今日の想い 374

積み上げられた書類箱が整頓もされずに壁と言う壁を占領している。片付けても仕方が無いという先入観があるのか、ダイニングテーブルの上も机の上も選別されないもので散らかり放題だ。家庭を持って始めてわかったことだけれども、妻は掃除が苦手だ。モノを捨てられない性格も災いして特に整理整頓がまるっきり出来ない。皮肉も交えながら何度も何度も注意したけれども、本人にすれば、掃除も整理整頓もこれ以上は無理だと言えるほどにやっていると信じている確信犯だけに絶望的だ。身体を悪くしてからは注意するのも遠慮したせいか、いつの間にか彼女の基準に私が譲歩することで良しとしてしまっている。と言うわけで我が家は倉庫状態だ。部屋から部屋に移動するのでさえモノに遮られて難儀している。家がそういう状態だから血管もコレステロールが溜まって詰まりがちで血圧が上がると諭そうにも、極めて外的な妻はそんな関係性を認めようとはしない。私の言葉に強く逆らう訳でもないけれど、強く結んだ口元から嫌味と捉えて拒んでいるのは察して余りある。モノは出来るだけ処分すべきだ。いろんなリサイクルの方法があって人や場所によって役立つものがある。捨てると言う選択は最後にするにしても、忘れ去られて段ボール箱にしまいこんだままにして置くより捨てた方がましだ。意識もされないモノというモノがいつか徒党を組んで反乱を起こす。やれ蕩減だ、やれ恨みを買った仕返しだと思っているけれども、意外とモノへの執着が災難を引き起こしている。整理もされて意識も届き、日頃使わないものでも、大切に思えばこそ年に一度くらいは取り出して光を浴びせ空気を吸わせる。部屋が片付いて掃除も行き届けば内的霊的にも整理されて自分の位置が霧が晴れるように見えてくる。耳は東西南北を象徴する器官だけれども、掃除や整理整頓することで内的霊的耳は格段に冴えてくる。感謝祭の今日、どこからともなくターキーを焼く香ばしい匂いを鼻腔に覚えると、大掃除への衝動を喚起させる天使がやってくる。家も店も大掃除をして、内的霊的耳を研ぎ澄ませて、新年の運勢情報や動向を察知する。

今日の想い 373

この外界の隠された本質を見たいと思うなら、この肉体は外界に埋もれていたとしても、心魂は感覚世界を超えて霊界に届くことができる心魂とする必要がある。心魂が霊界に届くことで、この外界の霊的な本質を見届けられる。心と体が戦うと言う絶え間ない心身紛争が継続していながら、そのことさえ感じないなら、私の心魂は完全に肉体に主管され感覚世界を漂うものでしかない。人間本来の心魂は精神に貫かれ、高次の霊的存在から届くもの、更に神様から届くものを思考と感情に紡いで表す。しかし霊性を閉ざされた現代人の心魂は或る意味凝り固まってしまっている。唯物的な思考と閉ざされた感情に落とし込まれて身動きできないでいる。感覚世界のみに彷徨う自由とは程遠い囚われの心魂を、堕落して内的霊的に無知に陥った人間はその状態を正しい心魂だと信じて疑わない。高みに届く心魂を、神様に届く心魂を、私は備えることができないでいる。新たに新生され、高次の叡智と神様の心情を直接に受け取ることができたなら、しがみ付いていた堕落的心魂様相がどれほど低次元なものか理解できるだろう。堕落人間は生命の木に至る道を閉ざされて、低次の心魂に留まり続けている。心身紛争を自覚するどころか肉心の要求のままに生を繋いでいるに過ぎない。水が流れ、空気が流れるように、愛も流れる。本然の愛が流れて本然の生命が宿り、本然の生命が連なって本然の血統が未来永劫繋がれていく。貶められた、愛とは言えない愛を愛だと信じ、天から流れてくる本然の愛を捉えることができないでいる。それはみ言葉を受け入れた今の私でも同じことだ。私達が映っている御父様の小さな目は、真の愛を知らないことへの不憫さで翳っている。偽りの、愛とも呼べない愛にしがみ付き、そこから離れようとしない愚かさを嘆いておられる。

2011年11月22日火曜日

エロヒム

私が私であるという自我意識は、一体いつから目覚めたのだろうか。幼少の記憶を更に遡っていくと、私と言う体は存在しているはずなのに、記憶に留められない自我意識にとって暗黒の期間がある。人によってどこまで遡れるかはまちまちだけれども、一歳二歳の記憶を保持している人はいないだろう。生まれた時や乳を吸っていた頃の自分を親から伝え聞いて、間接的に私という存在があったと認識しているだけであって、自我意識が目覚めていた自分を生きた訳ではない。朝起きるときに、眠っている状態からまどろんでいる状態を経て、次第に意識が明るくなっていって完全な目覚めの状態になる。同じように自我意識も生まれる時には眠っている状態であって、それからまどろんでいる状態を経て次第に自我意識は明るくなっていき完全に目覚めの状態になる。人間がそうであるなら人間を御姿の通りに創造された神様も、そういう過程を経られたと仮定することができるのだろうか。生まれてから自我意識の目覚めまで、自我意識が眠った状態であっても乳を吸う行動もするし泣きも笑いもする。肉体は動いているし心魂も活動している。ただ生まれて間もない頃は肉体も魂も統一的には連動していない。自我意識が目覚めるに従って、肉体と心魂が自我意識に貫かれる形で統一的に連動していく。人間が時間と共に進化していく過程を見るように、神様に於いても進化発展していく過程があったと言うことができる。聖書の創世記に我々の形に我々にかたどってと記されているように、そこでは複数形の神様として記されているのに、創造を終えられて主なる神という表現が出てくる。それを私の心魂の深いところで受け取ると、仮定の域を脱しないとしても、人間が自我意識に目覚めた人間に成長すると同じ、私はあってあるものと語られる主なる神様が現れたと捉えられる。(ちなみに、日本語訳の聖書には創世記に神と訳されているが、原書にはエロヒム(神々)という複数形が用いられ、主なる神はヤハウェという一人称で記されている。)御父様が最近夜の神様昼の神様という御話をよくされるが、夜の神様が創造以前の神様であり、昼の神様が創造を始められた神様だというように説明を受けているが、同じ神様であるなら夜を過ごされる神様であり昼を過ごされる神様という表現であれば納得するけれども、夜の神様昼の神様と別の存在のように思える表現にはエロヒムとヤハウェという関係を表されておられるのだろうかと勘ぐりにも近いことを考えている。

2011年11月18日金曜日

み言葉解釈を考える

み言葉はみ言葉であって、それに付け加えて理解すべきでもないし差し引かれて理解すべきでもないだろう。解釈の違いをもって、これは正しくあれは間違いであると議論を戦わせたところで、そこにみ言葉理解への道が開かれるとは思えない。百人いれば百人それぞれに理解度が異なり、理解度に応じて何らかの解釈を受け取る。解釈はみ言葉そのものではなく、自分に取って暫定的仮定的なものであって、その解釈を絶対的なものとすることはできない。ましてやそれを全体に流布するとなると、思い込みをさも真理のように受け取らせて混乱を来たすだけで、世を惑わすものでしかないだろう。御父様が生きて摂理を動かしておられ、様々な理解度でそれぞれに解釈を踏まえて歩む兄弟達全体を指導しておられるのに、そこに自分の解釈を投入して結果的に混乱をもたらすのであれば、万が一正しい解釈だとしても独善的だと言わざるを得ない。三十年前を思い出し今に比べてみると、活動も画一的だったけれども思考も画一的だった。捉え方が自分と隣とで違うなどと思ったこともなかったし、同じみ言葉を受け取りながら分派が出てくること自体が不思議で仕方がなかった。しかし天国建設は明らかに外的地上的なイメージとして捉えていて、内的霊的なものについては非常に漠然としたものだった。表面的なもので納得し良しとしていた期間を経た後、私の心魂の奥へと内的霊的に掘り下げたところにみ言葉は生きて働きかけ、天国は内的深みでこそ建設されると言うことが次第に見えてくると、外的地上的なものは内的なものの投影だとわかる。外的地上的にみ言葉解釈に右往左往するのではなく、私の内面世界でみ言葉が骨となって心魂的肉付けがなされているかどうかを見なければならない。反対派や分派の解釈を論破したからと言って、それによってみ言葉の本質が浮き彫りにされ、兄弟達の内面にみ言葉が柱として立ちやすくなるかというと、私は逆に余計に混乱させてしまうと思う。言葉のせめぎ合いには、心魂の思考活動に入り込んだ悪魔的なものが介入されている。

2011年11月16日水曜日

今日の想い 372

私達は御父様の恨(ハン)を胸の内に抱えており、涙に浸した魂がその在り様としてある。笑っていても笑いきれず、喜んでいてもどこか喜びきれず、御父様がそうであるように、悲しいほどに犠牲を差し出そうとする。どれほど犠牲を供えてもまだ足りないと思うし、全ての非の原因が自分にあるとし責任を引き取ろうとする。誰かに押さえつけられてそうあるのではなく、御父様の息子であり娘だからそうならざるを得ないのだろう。だから、私たちはどこまでもどこまでも謙虚であろうとし、どこまでもどこまでも信じて疑おうとは思わない。そしてそれは、どこまでもどこまでも悲しく、どこまでもどこまでも切ない。カルト扱いもされ、洗脳されて気でも振れたように見られてきたし、普通と違うと言うだけで、非現実的な理想世界を目指しているというだけで距離を置かれてきた。周囲の環境も変わってきて、一時のあからさまな非難や中傷もなくなったけれど、それでも当時の罵声が時々思い出されて鈍い響きを放ち、胸の内の傷跡として残っていて痛みを覚える。どれほどスマートな社会人を装っても、御父様を慕い侍る路程で相続された心情は胸の奥底で息衝いている。どれほどこの世に迎合しようと試みても、どれほど教会から距離を置きみ言葉や御父様を否定したとしても、植えつけられた御父様の心情は胸のうちに息衝いていて、どう回り道しても結局は御父様の胸のうちに帰らざるを得ないだろう。そうして御父様を想って涙を流さざるを得ないだろう。それが統一食口の在り様であり故郷だ。御父様が涙の御方であり、統一教会は涙の教会だ。昔は教会の玄関を潜っただけで、胸が締め付けられる想いに教会が満たされているのを感じることができた。もし教会に涙が乾いて久しいと言うなら、御父様の心情が備わっている教会とは言えないだろう。教会がそうであるように統一食口に於いても、彼らに出会うだけで訳も分からず共感してしまい、切なくも涙が自然と流れてしまうと言わしめるような存在であるべきだ。御父様にお会いすれば涙は自ずと流れてくる。御父様の在り様そのものが涙の御方だと言うことが出来る。十六歳の御父様の詩、栄光の冠を声にしてゆっくり読み進めると、私はどうにも心苦しくなる。何処までもどこまでも悲しく、どこまでもどこまでも切なくなってくる。

2011年11月15日火曜日

環境的要件

外に出てしまった兄弟も問題はあるが、内に居て動こうとしない兄弟達にも問題はある。外に出て行った兄弟達に批判的な感情を持っているとするなら、自分は批判を受ける必要のない抱き抱えられた内にいると思っている。彼らは愛されていない立場、存在を否定された立場であり、自分は愛されている立場、存在を肯定された立場に置いている。批判的言葉と言わずに、敢えて批判的感情としたことを強調して置きたい。教会の内に居る兄弟達は、このみ言葉にふれ御父様に出会えたことを喜んでいる。祝福を戴いたことを喜んでいる。祝福家庭として出発したことを喜んでいる。祝福子女を与えられたことを喜んでいる。先祖を解怨して戴き、先祖祝福を戴いたことを喜んでいる。喜びの感情は確かに大切だ。しかし問題は喜んで完結させて、それで終えてしまっていることにある。本当はそこが出発点でありその戴いた種から実りを収穫するべきなのに、種を戴いたまま何もせずに喜んでいる。種を握りしめたまま、その果実をいまかいまかと待ち構えているだけだ。種は種であって引換券ではない。それを天国の門で差し出せば、自動的に天国に入れてもらえる訳ではない。霊界の協助を一方的に期待し待ち構えているけれど、そんな態度で霊界の協助を得られると思わない方がいい。種には畑という環境的要件が必要とされる。祝福という種が成長し実りをもたらす環境的要件は私自信だ。私がどれだけ内的霊的に耕されているか、必要な内的肥料や内的水分をしっかり供給できているかを問われている。霊的な協助の話をすれば、先ず私の思考を組み立てる概念、受け取る五感からの感覚内容、全てに於いて唯物的なものが浸透している。要するに物を物としてしか見ていない。御父様は手の届く物すべてを神聖なものと捉えなさいと話されるように、体の背後に心があるようにその物の背後に神聖な霊が存在していて、常に背後にある霊的なものを見届け感じ取ろうとしなければならない。勿論相手が人であれば尚更のことだ。また私の中に湧きおこる感情のひとつひとつも、その背後にある働き、霊の流れを見届ける訓練をしていけば、霊的なものを感じ取れる感受体を備えることができる。それは個体的な祝福の環境要件だけれども、それを土台としながら家庭には家庭の環境的要件、氏族には氏族の環境的要件、国には国の祝福を育てる環境的要件が必要とされる。母の国として祝福を戴いて、その国家的祝福の種を成長させ実らせる為には、国の為に犠牲を供えた多くの霊達の協助が必要なのは言うまでもない。ではその協助の為に霊達が再臨する国家的な内的霊的環境的要件を耕す為に、地上に於いて祝福中心家庭がどれほど中心的役割を為しているだろうか。戴いたもので完結させようとする乞食意識が、教会の内にいる兄弟達にも蔓延している。国を愛し、国を憂い、御国の為にという想いが兄弟達の中に燃えているだろうか。国家を代表して搾り取ってでも献金してきた、その味わってきた感情内容をもって日本の国への想いに育て上げずに、教会への恨みに貶めるなら、御父様の御心情を本当の意味で理解してはいないだろう。

2011年11月14日月曜日

散り落ちる枯葉を見ながら

晩秋の冷たい風に煽られて枯葉が舞い落ちる。灰色の曇り空を背景に枯葉が舞うのを眺めながら、心躍る気分になることはないだろう。死期を間近に控えた諦めにも似て、残り少ない日々を散り行く枯葉のひとつひとつに重ね合わせている。その感情に引き摺られ、どこまでも落ち込むなら、私は感情に主管されて揺れ動く魂の存在以上にはなり得ない。個人に於いても、全体に於いても、多くの大小の問題が感情を波打たせ、冷たい風雨となって吹き荒れる。枝を大きく揺さぶれば、この手を放そうかどうしようかと迷っていた葉達はひとたまりもないだろう。感情気分に抗うことなく散り落ちてゆく。勿論散り落ちて肥やしにはなるけれども、霊の存在でありながら魂の肥やしに留め於かれれば、私の中に霊の花が咲くのを直接的に体験することは無い。霊の花が咲かなければ、人間存在としての歓びの極致を味わうことも無いだろう。何代かを経ながら間接的な関わりに甘んじるのを待つことになる。キリスト教には殉教の歴史がある。彼らは自分の生命を軽んじたのではない。キリストとの内的出会いを為し、自分の生命を供えても代え難い、霊の花が咲き霊の実りを収穫できることを知っていた。殉教の瞬間、痛みに顔が歪み苦痛に身悶えしたのではなく、神霊を受け取り霊の花を見事に咲かせた歓びに咽んだ。殉教だけが尊いと言っているのではなく、生きるにしろ死ぬにしろ、心魂を超えた高次の霊、精神の高みの位置を視界に捕えて、心魂を導き行動すれば、私は霊の花、真の愛の花として咲くことができる。堕落とは関係の無い根源が心魂を纏い肉を纏っておられるのが御父様だ。私が御父様にしっかりと接木されれば創造本性の花が咲く。花も咲かせず実も実らせず、散り落ちて存在を確定されずには霊界に留まることすら難儀だろう。内的霊的無知が私と言う存在を消し去ろうとしている。わからないなら下手に考え判断を迫る必要は無い。ただただ、御父様に帰依し、御父様にしがみ付いて行けばいい。御父様に繋がっている手を放すも握り締めるも、接木する私の意志であって、御父様がその手を払いのけられることはない。親が子供の手を放すまいとして握り締めこそすれ、払いのけられることなどありえない。枯葉が舞い落ちるのは、その表面的に纏った物質という被いだけであり、その実りとしての霊的本質は天に昇っている。落葉する季節に、山の高みから山野を見渡せば、木々の精霊が天に昇っていくのを見渡せる。

2011年11月12日土曜日

生心を取り戻して

自分がどれだけ打算的な人間であるかは、私が知る以上に御父様が見抜いて知っておられるということを、私が御父様にお会いした時に悟らされた。兄弟達はいろんな御父様との出会いをそれぞれに持っているだろう。御父様の身辺で常に接しておられる責任者や先輩食口もおられるし、修練会や大きな集会の場で遠くから御父様を眺めるくらいしか出会いの場はなかったという兄弟達もいる。そういう兄弟達のほうが遥かに多いはずだ。しかし何らかの特別の出会いの機会を戴いたとして、それは食口であれば誰でもそういう機会を望むけれども、かと言って御父様の御側で常に侍りたいかと問われると多くは言葉に詰まる。自分にとって記念碑的な出会いが欲しい訳で、それが有名人に会ったというステイタスとはどう違うのかを問わなければならないし、その出会いと自分の信仰への影響とは別問題だ。私の直接的出会いは記憶から消し去りたいほどの不幸な出来事として突きつけられた。そうなってしまった過程に言い訳もできるし、私自信を否定されるものではないと自分に言い聞かせるのだけれど、地獄に突き落とされたような絶望感はどうしようもなかった。(ご要請という投稿に記してあります) その絶望感の中で必死で問いを内面に投げかけながら、実はそう言った出会いは内面世界に於ける象徴的な出会いだということがだんだんと見えてきた。その象徴的出会いはこの世の絶望感からすると彼岸の希望として対比される。私の表面的心ではそれは裁き以外何物でもないが、生心という言葉を使っていいのであれば、それは生心を取り戻すための象徴的な事件であり、生心を取り戻して初めて消え失せない霊界の存在として霊的生命を与えられたと言うことができる。打算的な人間、即ち価値基準を霊界に置こうとしない人間は一度内面的なショックを必要とする。心肺機能が蘇生するように内的雷に遭遇して霊界に存在できる生心を取り戻す。私の御父様との直接的な出会いは、地上的な価値観から言えば絶望的だけれど、取り戻した生心をして霊界から見れば、霊的生命を蘇生された事件として象徴として表している。私のような打算的人間ではなく、既に生心が息衝き御父様と歩みを共にする兄弟達なら、夢の中で御父様に何度も出会い、祈祷の中で御父様と直接に対話しながら、さらに生活やみ旨の歩みの中で御父様との多くの出会いを期待もし体験もしながら、霊的に躍動的生を送っているはずだ。

2011年11月9日水曜日

疲れた兄弟達に

底が見えない深くて大きな穴の中に、手ですくっては入れすくっては入れながら、十年も二十年も、或る者は三十年以上も投入し続けながら、それでも穴が埋まる気配さえしない。蕩減という穴埋めは終わったはずなのに、それでも投入し続けるのは自分の穴が大きすぎるせいだろうか。いろんな思いやいろんな疑念が私の内面で錯綜しながら、ひと時はそれでも惰性に任せて動いていたけれど、さすがに疲れてしまって一度下ろした腰はもう上がりそうもない。為に生きる愛、。犠牲的な愛、、。真の愛、、、。受けるにしても与えるにしても、愛の最も溢れる場所に位置していたはずが、愛から最も遠ざかったところに佇んでいるようだ。愛と言う言葉に触れても口に出しても、もはや私の中から萌え出でるものは覚えない。砂を噛むような生活だけが堰き止められることもなく流れている。私が時々そう感じるように、兄弟達の多くも、如何ともし難い疲労感を背中に負っているだろう。しかし、そんな事情を御父様が知らない訳もない。御父様の目がどんなに小さいと言っても、小さいからこそ私の遥か遠い未来までも見越しておられるはずだろう。息を吐いて、吐いて、更に吐いて、塵一つほどの息も残さずに吐き出させるのが御父様のやり方だ。もう出来ませんと言っても、どんなに小さな余力であっても、残っていれば投入させるのが御父様のやり方だ。訓読会の場で御父様の指示されるままに息を吐き続けながら、それがどんな意味があるかも解らずに、狐につままれたような兄弟達の顔が並んでいる。完全に吐き切った後、御父様の合図と共に息を吸う。一瞬に吸って一瞬に肺は膨らむ。吐き切れば吐き切るほどに、吸気は大きくて早い。投入して投入して投入し尽くせば、或る一瞬に、真の愛は私の容量を遥かに超えるほど流れ込んでくる。その道理を教えたい御父様だ。御父様は天地の道理を知っておられる。個人も全体も、全てを投入して辛うじて死なずに生き永らえている状態を見越したように、御父様は宣布式や勝利宣言をされている。もはや残っている何物もありませんと、全てを投入しましたと、神様にその報告をされるように、勝利宣言をされている。だからもう少しの辛抱だ。最後の力を振り絞って御父様にしがみ付いていればいい。D-DAYに合わせて、天地が大きく吸気するように、真の愛が全宇宙から流れ込んでくる。だから、後もう少し、、、。

2011年11月8日火曜日

今日の想い 371

窓越しにいろんな家の中を覗き込めば、入ってみたい衝動に駆られるだろう。敷き詰められた絨毯の柔らかさに触れてもみたいだろう。整えられた調度品の引き出しのひとつひとつに、隠されて息を潜めた歓びがしまわれている。その取っ手をつまんで優しく引き出すと、まだ見ぬ笑みが隙間からこぼれて溢れだすはずだ。見回していると奥の部屋への扉も目につく。私が手をかけて開けてくれるのを静かにじっと待っているようだ。家が何を象徴しているかは敢えて言う必要もない。目ざとく周囲の家々を観察しながら、窓が開いていれば覗き込もうとし、隙あれば入ってみようとも思う。或る者は美味しいところだけを摘まんではまた別の家を品定めしている。この鍵でどんな家にでも入っていける、そう思っている。確かにそうかも知れないが、侵入したつもりが実は頬張られていて、毒牙の顎に喰われてしまうことを知らない。毒牙に噛まれながら甘い陶酔のうちにその毒はまわっていく。私と言う霊の存在の破滅がその先にある。家々を渡り歩きながらこの世の生を謳歌しているようだけれども、その裏側に潜む暗く深い落とし穴を知らずにいる。ルーシェルがこの世の王、この感覚世界の統治者になったという意味は、肉的五感の歓びを最上のものとしたということだ。感覚至上主義を蔓延させることで霊の言い分を意識の隅に追いやってしまった。人間を精神(霊)の存在から感覚に仕える感覚存在に貶めてしまった。感覚存在は感覚的歓びを追い求める。あらゆる家に入りながらひたすら感覚を刺激するものを口にしようとする。口にしながら霊的には逆に口にされている。ひと時は兄弟達も、この内なる感覚衝動に翻弄される時期があったけれど、既に峠は越えている。ルーシェルが神様の前に跪き悔い改めたことの地上的な意味は、この感覚衝動を主管できる霊的力を受け取ることができると言うことだ。しかし私達が今直面していることは、思考に働きかけてきた別の悪魔の試練を受けているという問題だ。感覚衝動は罪の意識に直接的に関わるので分かりやすいけれど、思考に働くものを分別しようとするなら、み言葉の本当の力を受け取らなければならない。しかし、み言葉に宿る、思考を超えた神霊に至った時、私達の霊的視界はその高みから大きく広がるだろう。それは私という存在が霊的な進化を見せたということだ。

2011年11月7日月曜日

今日の想い 370

聖書に出てくる人物は復帰摂理に関与した中心的な人物であるけれども、現代の倫理観道徳観からして明らかに失格者のらく印を押さざるを得ない行動を取っているが、それをサタン側から神側に奪い返す行動として、復帰摂理の願いに応えるものとなっている。ユダの長男が死に、子を残すために二男に着いたが二男も死に、三男は宛がわれずに遊女となってユダをたぶらかし子をもうけたタマル。このタマルの双子のひとりであるべレツがイエス様の血筋になっている。戦場で戦っている部下ウリヤを尻眼に、水浴びをしているウリヤの妻バテシバに欲情して孕ませてしまったダビデ。しかしこのバテシバから生まれたダビデの子ソロモン(最初の子は主が撃たれて死んだがソロモンはバテシバとの二人目の子)がイエス様の血筋になっている。そしてこのウリヤはダビデの策略によって戦場で始末されてしまった。ヨセフと結婚しながらも姉エリサベツの夫ザカリヤの子をもうけたマリア。聖書からその事実を炙りだすことは無理だが、御父様の説明はそうなっている。この三人のことが、御父様が三大淫女として話された人物なのかどうかはどうも定かではないけれど、倫理観から外れたこの三人の行動が復帰摂理上、必要であり重要であったことはその通りだ。その事実を我々にも当て嵌めて、だから教会においても何でもありだとするのは本末転倒だけれども、あることないこと過去の全てを掘り返して我々の道徳感情を煽り、批判の片棒を担ぐのは戴けない。またそれを受けて、歩んできた過去の歩みを道徳的倫理的に検証しながら、正しいだとか間違っていただとかの感情を今の今引き出しても、感情を納得させる自己を満たそうとするものでしかないだろう。私たちには明確な着地すべき目的地がある。平たく言えば理想世界の実現だ。摂理が時を要求するものであれば、自己の潔白、道徳的責任の所在を指し示す前に先ず摂理の要求に応えることが優先されるべきで、道徳的責任を追及され裁きを受けるべきなら、摂理完遂の後でいくらでも裁きを受けて当然で、それが信仰を脅かすものとはならないはずだ。明るい色彩だけで絵を描くように綺麗事を並べて摂理を前に進めて来たわけではない。もしそれが可能ならイエス様も御父様も迫害され苦難の道を歩む必要はひとつもなかったはずだ。罪に染まった堕落存在をサタンから復帰しようと思えば、毒を毒でもって制したり、一方でサタンに肉を取らせて骨を復帰するようなことも必要だったはずだ。結果的に勝利を勝ち取ることが優先されるべきで、その過程の一つ一つを分散的に秤にかけても仕方がない。

信仰を考える

貴方達は騙されて踊らされた被害者だと言われ、そうだ私達は騙されて踊らされた被害者だと認めるとする。では被害者かどうかの真偽は別として、私が認める以上その間の信じていた私は何だったのか。信じていた私が将来に信じない私を予測して信じていた訳ではないだろう。被害者だと認めている現在の私が将来的にも同じ認識に立つことを信じているなら、騙されていたその間に信じていた私が変わった事実をどう納得するのか。要するに信じていた私を否定するなら、私という存在自体を信じることができない存在と断定しなければならない。所詮私は何も信じないし私という存在を否定した存在、そんな存在はあり得るのだろうか。実は反対論者が口にする信じるとか信じないとかは極めて表面的気分的なもので、自分の存在を問う信仰という深みに至らない者達の軽口に過ぎない。信仰を問う場合、自分の存在を問うに等しい重さがある。私という存在を消え失せない絶対的なものとするには、絶対的な信仰が要求される。絶対信仰という言葉の本質を見るなら、何が何でも信じますと言うのとは根本的に違う、私という存在の是非に関わっていることが見えてくる。かつての表面的気分的な信仰と思っていたものから、本来の信仰と呼ばれる深みに立ち入ることを赦されたから、絶対信仰という言葉が私達に与えられたと捉えるべきで、私達は今、様々な内外の問題を受けて過去にないほどの問いに溢れながら、絶対信仰の領域に入って行こうとしている。反対論者の言葉に接して兄弟たちの中に揺れ動くものが出てくることを心配する必要はなく、彼らの言葉も含めてあらゆる問いを自分に投げかけなければ絶対信仰には至らない。

2011年11月5日土曜日

立ち止りながら

原理として示された天宙の真理の骨組みを私達は学ぶことで、私達の信仰の基礎としている。信仰生活の中で、真理として受け取った骨組みに感情部分を肉付けしながら、信仰生命を成長させていく。しかし私の原理に対する理解が正しいのかどうかが問題になる。即ち骨組みが正しくなされて更に強度を増していってこそ感情部分も正しく肉付けされていくけれども、基礎が狂っていると信仰は歪になるし成長も見込めない。信仰生活の中で様々な信仰感情を味わい信仰条件として取られながら、内的霊的肉付けが為されていくと共に骨組みの検証がなされ組み替えられ強度が増し加えられていく。何度も何度も信仰の原点に立ち返らされ、骨髄の中で重生された核としての私を確認させられながら、肉を削り骨を軋ませる程の期間を通過して私の信仰生命は本物になっていく。逃げることも出来ない困難な状況の中で、意識圏で痛み苦しみ悲しみに喘いでいるうちにも、無意識圏の私の根源では新生の為の霊的手術が為されている。痛み苦しみ悲しみは誰であっても、内的に成長していようがいまいが、やはり痛み苦しみ悲しみに違いはないけれども、これを通過することで私はより本当の自分に生まれ変わり成長できると思えれば甘受しようとする意志が働く。苦労困難が大きければ大きいほど、痛み苦しみ悲しみが深ければ深いほど、大きくて深いマイナスの位置に比例する恩恵的プラスが引き寄せられるのは天宙の真理だ。日本の食口を愛される御父様は、お母様に期待されているように母の国の食口に期待されておられる。マイナス感情の深みをどれほど掘り下げても、それでも日本の食口は甘受できると信頼しておられる。その信頼こそが私達の誇りであり力でもある。御父様が地獄の底を通過されたのであれば、同じ事情圏環境圏を私も通過しますと言えてこそ、御父様の心情を占領できる。多くの食口が今、立ち止っている。D-DAYを目前にして立ち止っている。立ち止まること自体を批難されるべきではないだろう。立ち止まることが必要だから立ち止っている。今ほど兄弟達が自分の内面にも外界に対しても、そして内部にも外部にも、問いを投げかけた時はなかっただろう。しかし立ち止って横的な事情圏環境圏を見渡すだけで結論を急ぐのではなく、訓読もし瞑想もし、祈りもして熟考もしながら、縦的な認識を深めて欲しい。心魂に於いて、さらに霊の深みに於いて、御父様への帰依や献身を通して御父様から受け取ったものが必ずあるはずだ。どうにも否定することができない絡み合った父子の因縁があるはずだ。

2011年11月4日金曜日

リパブリック讃歌

南北戦争の時代に、北軍の行軍曲として歌われていたのがリパブリック讃歌だ。もともとは黒人霊歌のメロディーであったようだが、奴隷制廃止の活動家であり詩人でもあったジュリアウォードがこの曲に感銘を受け、閃くようにして歌詞をつくり、行軍曲として歌われていた。今でもアメリカの愛国歌としてアメリカ市民なら誰でも知っているほど愛唱されている。神の正義であり真実が必ず勝利するという、主の到来と栄光を高らかに讃美した歌になっているが、行軍曲として士気を鼓舞する歌である為に昔はうちの教会でも十字軍や結団式のおりにはよく歌われていた。この曲を聴くと私などは少し時代錯誤の感がするが、今でもこの歌をよく口にされるのがお母様だ。御父様に歌うことを促されると、このリパブリック讃歌を好んでよく歌われる。黒人霊歌のメロディーであったので、テンポよい元気な曲でありながらも、それでいてどこか哀愁を感じさせる曲だ。非人間的な扱いを受けながら、嘆きたい心、泣き叫びたい心を敢えて抑えて、強く自分の信仰を前面に押し出し進もうとする彼らの意志がこのメロディーに乗って流れてくる。この曲に共感を覚え、この曲を口にしようと思うときは、彼らと同じような内的状況であったりする。崩れ折れそうになるその状況に負けまいとして、前進する意志を差し出すときに口ずさむ。お母様がこの歌を口にされるときは心が痛い。人類の母として、過去にも未来にも誰ひとり代わりようのない御方として、私達が想像も付かないし誰も背負えない、真の母としての生きる宿命に殉じなければならない。お母様の歌われるリパブリック讃歌には、御自身を敢えて宿命に殉じさせ、自分の想いでなくみ旨に捧げられる御父様の想いのままにと御自身に強く言い聞かせられながら、御自身を鼓舞されるお母様の内面の壮絶な戦いを見ているようで心が痛い。私は、お母様の歌われるリパブリック讃歌に、真の母としての宿命に殉ずるお母様の意志を見る。

2011年11月3日木曜日

今日の想い 369

草食系、肉食系というような言い方が若者の気質を表す言葉として出ている。人間は欲望を満たす衝動に突き動かされて動くものだとばかり思っていたのが、自分を含めた今までの人間認識には当て嵌まらない若者が増えてきたのを認めざるを得ず、そういうガツガツしたものを持ち合わせない若者を昌して草食系と言い表している。そういう見方をすれば、ひと時の教会にいる私の周りの兄弟達は、当時にしてみれば意外と草食系の部類に入る人のほうが多かったかも知れない。抑えられてそうなったのか、もともとそういう気質の人が集められたのか、ガツガツしたものを感じさせる兄弟は少なかった。欲望が自分を地獄へと突き進ませるという認識を持っていたけれども、一方で欲望という強烈な吸引力がなければ富も権威も成功も手中に収めることはできない。欲望を持つこと自体が悪だとはみ言葉のどこにも見当たらないが、自己否定と欲望の否定を混同している為に、熱を持たない、生命感や躍動感に溢れない気質に傾いてしまう。しかし本当に光を当てるべきところは別にある。雲や霞のような欲望を漠然と捉えるのではなく、欲望の本質に光を当てて見通さなければ、人間性を否定した歪な形で理想の私を描くことになってしまう。私にルーシェル的な影響がどのように入り込み、どのように働いているのかを見届けられない限り罪や堕落性の本質に触れることもなく、み言葉の内容を生活とは距離を置く非現実的なものに捉え、救いも霊界も天国も外的感覚的なものとして捉えて自分にやって来ることを永遠に待ち続けている。それは空を仰いで再臨の主を待ち続けるクリスチャンと何ら変わらない。欲望がどのように個人中心的なものに踊らされてきたか、逆に欲望の熱を冷まさせることでどのように人間本来の欲望であるところの為に生き高次の精神へ向かう衝動を封鎖させたか、その問いの答えに本質はある。その本質的なものを霊的なものと言っていい。内的な火として燃えるものにルーシェル的な霊が働き、逆に火を冷まし消すものに神霊的な霊が働くと言うだけでは、神様が人間に霊を吹き込み個別的な魂の存在にさせた意味が見当たらない。肉食系のようなガツガツした自己中心的欲望を燃え立たせるのも、ルーシェルの仲間によるものかも知れないが、草食系のように夢や希望への強い向上心を見出せず、薄く静かにトロトロと弱火で通そうとするのも別の堕落的なものが関与している。

2011年11月2日水曜日

今日の想い 368

そこは彼女に取って完全な暗闇だった。地の上に立ってはいるけれど、何処からともなく機械音を響かせながら彼女の傍を通り過ぎていく得体の知れないモノたちに囲まれていた。彼女は、身体の向きをすばやく変えながら、握っているステッキで地を無闇に叩きつけていた。その異様さに怖気づいて誰も近寄ろうとはしない。時々両手を組み合わせて祈っている風にも思えるけれど、歪んだ口は呪うように何かを吐き捨てていた。私は車の流れに乗って一度はその場を通り過ぎた。運転する誰もが一瞥し、しかし誰もが素通りしていった。誰が見ても異様な彼女に関わろうとはしなかった。勿論手助けしようと思えば、片道三車線もあるこの大通りをはずれて一度住宅路に入り、一旦車を止めてその場所に向かわなければならない。そこまでの時間も心の余裕もないだろう。ポリスカーでも通り過ぎない限り、彼女は大きな交差点の真ん中に居続けることになる。敢えて通り過ぎて関わらない理由を私は見出せず、車をUターンさせた。ひょっとしたらとは思ったが、案の定状況は変わっていなかった。大通りの交差点を途中まで行って、恐らくそこで渡りきったと思い違いをしたらしく、混乱している様子だった。白いステッキを持っていたから目が不自由だというのは誰もがわかるけれど、しかしそのあまりの異様さが誰をも遠ざける。近寄って声をかけても、彼女の状況は以前と変わらなかい。相変わらずステッキを地に叩きつけ、訳の分からぬ事を口走っている。何処に行きたいのか尋ねても全く要領を得なかった。兎に角ここは危ないからと説得し渡りきらせるしかなかった。何とかなだめて説得しようと四苦八苦している内に、何故か祖父の顔が頭に浮かんだ。身体も精神も病んで看病する母を困らせた祖父の顔が浮かんだ。やっとのことで応じさせ、何とか渡りきらせたが、彼女はそのままステッキを叩きつけながら足早に去っていった。礼のひとつぐらい口にすべきだろうとは思ったが、私は自分の良心が納得したのを覚えて安堵した。人助けをしたようなしないような、お節介だったようなそうでもないような、キツネにつままれた様な不思議な体験だったけれど、この状況を見た以上行動せざるを得なかった。恭(うやうや)しく礼でもされたら感情は喜んだのかも知れないが、それによって敢えて何か考え学ぼうとはしないだろう。現にどういう意味があったのか今日一日考え続けている。やはり気になるのはその場で頭に浮かんだ祖父のことだった。そして祖父をしっかり看取った母のことだった。祖父は長く身体を病んでいたが、最後の頃には精神も病んでしまい、看病する母である実の娘を御前は誰なのかと罵り、訳のわからぬことを口にしながら母を困らせた。それでも母は祖父がどれだけ苦労したかをよく知っていたので、叩かれ罵られても、愚痴も言わずに下の世話から何から何まで世話して看病し続けた。祖父は確かに暗闇の中で恐れ佇んでいた。外界の認識を正しく受け取れず、暗闇の恐れから近寄る者に容赦なく牙を向けた。私が珍しく帰った時、祖父は私を見てひたすら笑い転げていた。その様子を母は見ながら、私にやっと会えて喜んでいるのだと告げた。母は祖父の背中を撫でながら、良かった良かったと祖父に言い続けていた。暫く見続けていた、あの足早に去って行った彼女の背中を、一日が終わった今でも祖父の面影と共に追っている。