2011年11月27日日曜日

二世の親として

一世に取っては私が出会い、私が必要とし、そして私が望んで信仰の道を歩んでいる。しかし二世に取っては出会ったのは親であり、親が必要としているのであり、そして親が自分を信仰の道へと誘う、或いは勧め或いは強要する。自分も含めて一世の誰もが、二世が信仰の道へと向かうのは至極当然のことで、それについては信じて全く疑うことはなかった。それはひとつとして祝福二世は原罪がないと言うものであり、原罪がないから神様の願いを直接受け取る澄んだ心があって自ずとみ旨へと向かわせると言う思い込みだ。祝福子女は増えれば増えるほど生きた証しになるはずだった。まだ家庭をもっている者が責任者のみで少なく、御家庭のように祝福子女を育て教育する担当がわざわざ付いていたりした時期は、周りも王子王女にでも仕えるような接し方で二世本人の自覚もそれなりにあったはずだが、この世と何ら変わらない環境圏で、さらにみ旨で忙しかったり経済的な困窮も加われば、親の期待をプレッシャーとして背負いいろんな内的問題を抱え始める。今となれば祝福によって受けた霊的恵みがそのまま子女の心魂に見える形で影響を及ぼすことはないとわかるし、親が期待していた祝福の子女のイメージと現実は異なると言うこともわかる。描いて期待していた子女像が神様のそれとは異なっていたと言えるかも知れない。しかしみ言葉で培ってきた教会伝統を伝え、祝福家庭としての血統を繋いでいく使命の重さを知っている一世にしてみれば、期待はずれを悔やんでばかりも居られない。二世にみ言葉を受け入れさせ信仰を植え付けることにどうしても焦りが出て、過剰気味で余裕の持てない接し方になってしまう。山をも動かす信仰だと言っても、山が動かないことは良くわかっている。状況は悪くはなっても親の期待通りにはならない。そうこうしているうちに親も内的霊的に疲れ果ててしまう。我が家がそうであるように、多くの家庭がそんなところだろう。子供が祝福を受けてそれなりに家庭を築いている、そんな勝ち組には組み入れてもらえない疎外感や減少感。祝福の血統を繋いでいけないかもしれないという挫折感や恐怖感。ひとりの歩みでは知る由もなかった、家庭を持ち親となって初めて神様の様々な心情を味わっていく。実は親になって初めて通過する心情路程こそみ旨の本道であり、それまでの歩みは準備期間に過ぎない。神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従で歩んでこられた意味が親になってこそ理解できる。ふらつく子供であれば尚更、信じざるを得ないし、愛さざるを得ないし、結局は従わざるを得ないと言える。絶対的な内的位置に立たない限り希望を明日に繋げない。親としての神様の心情のひとつひとつを味わえることが、私が感謝だと言えるうちの最高の感謝だ。それは涙を流さざるを得ない感謝であり、心配で心が張り裂けそうな感謝だ。

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