2011年11月7日月曜日

今日の想い 370

聖書に出てくる人物は復帰摂理に関与した中心的な人物であるけれども、現代の倫理観道徳観からして明らかに失格者のらく印を押さざるを得ない行動を取っているが、それをサタン側から神側に奪い返す行動として、復帰摂理の願いに応えるものとなっている。ユダの長男が死に、子を残すために二男に着いたが二男も死に、三男は宛がわれずに遊女となってユダをたぶらかし子をもうけたタマル。このタマルの双子のひとりであるべレツがイエス様の血筋になっている。戦場で戦っている部下ウリヤを尻眼に、水浴びをしているウリヤの妻バテシバに欲情して孕ませてしまったダビデ。しかしこのバテシバから生まれたダビデの子ソロモン(最初の子は主が撃たれて死んだがソロモンはバテシバとの二人目の子)がイエス様の血筋になっている。そしてこのウリヤはダビデの策略によって戦場で始末されてしまった。ヨセフと結婚しながらも姉エリサベツの夫ザカリヤの子をもうけたマリア。聖書からその事実を炙りだすことは無理だが、御父様の説明はそうなっている。この三人のことが、御父様が三大淫女として話された人物なのかどうかはどうも定かではないけれど、倫理観から外れたこの三人の行動が復帰摂理上、必要であり重要であったことはその通りだ。その事実を我々にも当て嵌めて、だから教会においても何でもありだとするのは本末転倒だけれども、あることないこと過去の全てを掘り返して我々の道徳感情を煽り、批判の片棒を担ぐのは戴けない。またそれを受けて、歩んできた過去の歩みを道徳的倫理的に検証しながら、正しいだとか間違っていただとかの感情を今の今引き出しても、感情を納得させる自己を満たそうとするものでしかないだろう。私たちには明確な着地すべき目的地がある。平たく言えば理想世界の実現だ。摂理が時を要求するものであれば、自己の潔白、道徳的責任の所在を指し示す前に先ず摂理の要求に応えることが優先されるべきで、道徳的責任を追及され裁きを受けるべきなら、摂理完遂の後でいくらでも裁きを受けて当然で、それが信仰を脅かすものとはならないはずだ。明るい色彩だけで絵を描くように綺麗事を並べて摂理を前に進めて来たわけではない。もしそれが可能ならイエス様も御父様も迫害され苦難の道を歩む必要はひとつもなかったはずだ。罪に染まった堕落存在をサタンから復帰しようと思えば、毒を毒でもって制したり、一方でサタンに肉を取らせて骨を復帰するようなことも必要だったはずだ。結果的に勝利を勝ち取ることが優先されるべきで、その過程の一つ一つを分散的に秤にかけても仕方がない。

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