2011年11月25日金曜日

今日の想い 373

この外界の隠された本質を見たいと思うなら、この肉体は外界に埋もれていたとしても、心魂は感覚世界を超えて霊界に届くことができる心魂とする必要がある。心魂が霊界に届くことで、この外界の霊的な本質を見届けられる。心と体が戦うと言う絶え間ない心身紛争が継続していながら、そのことさえ感じないなら、私の心魂は完全に肉体に主管され感覚世界を漂うものでしかない。人間本来の心魂は精神に貫かれ、高次の霊的存在から届くもの、更に神様から届くものを思考と感情に紡いで表す。しかし霊性を閉ざされた現代人の心魂は或る意味凝り固まってしまっている。唯物的な思考と閉ざされた感情に落とし込まれて身動きできないでいる。感覚世界のみに彷徨う自由とは程遠い囚われの心魂を、堕落して内的霊的に無知に陥った人間はその状態を正しい心魂だと信じて疑わない。高みに届く心魂を、神様に届く心魂を、私は備えることができないでいる。新たに新生され、高次の叡智と神様の心情を直接に受け取ることができたなら、しがみ付いていた堕落的心魂様相がどれほど低次元なものか理解できるだろう。堕落人間は生命の木に至る道を閉ざされて、低次の心魂に留まり続けている。心身紛争を自覚するどころか肉心の要求のままに生を繋いでいるに過ぎない。水が流れ、空気が流れるように、愛も流れる。本然の愛が流れて本然の生命が宿り、本然の生命が連なって本然の血統が未来永劫繋がれていく。貶められた、愛とは言えない愛を愛だと信じ、天から流れてくる本然の愛を捉えることができないでいる。それはみ言葉を受け入れた今の私でも同じことだ。私達が映っている御父様の小さな目は、真の愛を知らないことへの不憫さで翳っている。偽りの、愛とも呼べない愛にしがみ付き、そこから離れようとしない愚かさを嘆いておられる。

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