2011年11月18日金曜日

み言葉解釈を考える

み言葉はみ言葉であって、それに付け加えて理解すべきでもないし差し引かれて理解すべきでもないだろう。解釈の違いをもって、これは正しくあれは間違いであると議論を戦わせたところで、そこにみ言葉理解への道が開かれるとは思えない。百人いれば百人それぞれに理解度が異なり、理解度に応じて何らかの解釈を受け取る。解釈はみ言葉そのものではなく、自分に取って暫定的仮定的なものであって、その解釈を絶対的なものとすることはできない。ましてやそれを全体に流布するとなると、思い込みをさも真理のように受け取らせて混乱を来たすだけで、世を惑わすものでしかないだろう。御父様が生きて摂理を動かしておられ、様々な理解度でそれぞれに解釈を踏まえて歩む兄弟達全体を指導しておられるのに、そこに自分の解釈を投入して結果的に混乱をもたらすのであれば、万が一正しい解釈だとしても独善的だと言わざるを得ない。三十年前を思い出し今に比べてみると、活動も画一的だったけれども思考も画一的だった。捉え方が自分と隣とで違うなどと思ったこともなかったし、同じみ言葉を受け取りながら分派が出てくること自体が不思議で仕方がなかった。しかし天国建設は明らかに外的地上的なイメージとして捉えていて、内的霊的なものについては非常に漠然としたものだった。表面的なもので納得し良しとしていた期間を経た後、私の心魂の奥へと内的霊的に掘り下げたところにみ言葉は生きて働きかけ、天国は内的深みでこそ建設されると言うことが次第に見えてくると、外的地上的なものは内的なものの投影だとわかる。外的地上的にみ言葉解釈に右往左往するのではなく、私の内面世界でみ言葉が骨となって心魂的肉付けがなされているかどうかを見なければならない。反対派や分派の解釈を論破したからと言って、それによってみ言葉の本質が浮き彫りにされ、兄弟達の内面にみ言葉が柱として立ちやすくなるかというと、私は逆に余計に混乱させてしまうと思う。言葉のせめぎ合いには、心魂の思考活動に入り込んだ悪魔的なものが介入されている。

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