2011年11月25日金曜日

譬えによるものと直接的な御言葉

マルコ伝の第四章にイエス様が語られた種まきの話がのっている。道端に落ちた種は鳥が食べてしまい、土の薄い岩地に落ちた種は根がない為に枯れてしまい、いばらに落ちた種は塞がれて実を結ばず、しかし良い地に落ちた種は育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。大衆に対しては譬えをもって話されたが、イエス様が一人になられた時、十二弟子を含むそばにいた者達がこの譬えについて尋ねると、種まきは御言をまくのであり、御言を聞くとまかれた御言をサタンにすぐ奪われる者、喜んで受けるが根がないので御言のための困難や迫害に躓く者、聞くには聞くが世の心遣い富の惑わし欲が御言の成長を妨げる者、そして御言が実を結ばせる者のことだと説明されている。比喩でもって話された言葉と聞くべき耳をもっている者に話された理性による直接的な言葉。ひとつはイメージを与えて感情に反応させようとされたのであり、今ひとつは直接的言葉による思考を刺激しようとされた。古代人から現代人のほぼ三分の二の地点にイエス様の時代は位置するが、古代人と現代人の両極を比べた時に意識の在り様が大きく異なっている。古代人はより霊的世界(限定された低次元の霊界)に偏り現代人にすれば彼らは夢心地のような意識状態であって、現代人のように思考したり醒めた理性や判断力と言った明るい意識は備えなかった。イエス様の時代、譬えで語ることが当時の意識段階に於いては必要だった。一般的に譬えの言葉を受け入れて理性の言葉に進む当時と、原理講論の論理的理性の御言葉を最初から理解する我々とは意識段階が異なる。どちらが本性的かというと現代人の意識だけれども、本性的であると同時に自由度も増して善にも悪にも取っ付き易い。譬えとして受け入れようが理性を用いて直接的に受け入れようが、気分的な感情に留まり、自己を納得させる思考に留まるだけで、み旨に生きようとする意志が発動されないかぎり良い地にまかれた種とは言えない。心魂の活動として知情意があるように、天の叡智と天の心情を私の魂の在り様としながら、それらが作用して意志としてのみ旨に向かう想いが発動されてこそ、真の愛がそこに流れ、さらにそこから流れていく。川の流れるところに木が育つように、真の愛が流れるところに生命の木は育まれていくはずだ。

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