2011年11月12日土曜日

生心を取り戻して

自分がどれだけ打算的な人間であるかは、私が知る以上に御父様が見抜いて知っておられるということを、私が御父様にお会いした時に悟らされた。兄弟達はいろんな御父様との出会いをそれぞれに持っているだろう。御父様の身辺で常に接しておられる責任者や先輩食口もおられるし、修練会や大きな集会の場で遠くから御父様を眺めるくらいしか出会いの場はなかったという兄弟達もいる。そういう兄弟達のほうが遥かに多いはずだ。しかし何らかの特別の出会いの機会を戴いたとして、それは食口であれば誰でもそういう機会を望むけれども、かと言って御父様の御側で常に侍りたいかと問われると多くは言葉に詰まる。自分にとって記念碑的な出会いが欲しい訳で、それが有名人に会ったというステイタスとはどう違うのかを問わなければならないし、その出会いと自分の信仰への影響とは別問題だ。私の直接的出会いは記憶から消し去りたいほどの不幸な出来事として突きつけられた。そうなってしまった過程に言い訳もできるし、私自信を否定されるものではないと自分に言い聞かせるのだけれど、地獄に突き落とされたような絶望感はどうしようもなかった。(ご要請という投稿に記してあります) その絶望感の中で必死で問いを内面に投げかけながら、実はそう言った出会いは内面世界に於ける象徴的な出会いだということがだんだんと見えてきた。その象徴的出会いはこの世の絶望感からすると彼岸の希望として対比される。私の表面的心ではそれは裁き以外何物でもないが、生心という言葉を使っていいのであれば、それは生心を取り戻すための象徴的な事件であり、生心を取り戻して初めて消え失せない霊界の存在として霊的生命を与えられたと言うことができる。打算的な人間、即ち価値基準を霊界に置こうとしない人間は一度内面的なショックを必要とする。心肺機能が蘇生するように内的雷に遭遇して霊界に存在できる生心を取り戻す。私の御父様との直接的な出会いは、地上的な価値観から言えば絶望的だけれど、取り戻した生心をして霊界から見れば、霊的生命を蘇生された事件として象徴として表している。私のような打算的人間ではなく、既に生心が息衝き御父様と歩みを共にする兄弟達なら、夢の中で御父様に何度も出会い、祈祷の中で御父様と直接に対話しながら、さらに生活やみ旨の歩みの中で御父様との多くの出会いを期待もし体験もしながら、霊的に躍動的生を送っているはずだ。

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