2011年11月28日月曜日

血統を考える

人間にとって血統というものがどれだけ重大な意味があるかは、御父様が事或るごとに触れておられる。会ったこともないアダムエバが犯した罪をどうして後孫である私が引き継いでいるのか。血統ゆえだ。神様が救いの摂理をアダムとエバに限って為すのではなく、アダムとエバも含めての救いを罪を受け継いだ(受け継がせた)後孫を通して摂理される。それも血統ゆえだ。霊人の解怨や祝福は数多(あまた)の霊人ではなく、基本的に先祖を遡って為される。血統ゆえだ。もちろん私と言う存在があるのも血統を通して生命を与えられて存在している。血統を外れて別の方法で生命が飛び出てくる訳ではない。親であれ子供であれ、ひとりひとり別個の存在であるかのような認識を現代人はもっているけれども、根源であられる神様は、血統の中に生き続け、血統を通して引き継がれるものを霊格と言えるようなひとつの相対存在として認識しておられるように思う。人間は肉体の或る部位がなくなろうが全ての細胞がとっ変えられようが、たとえ顔が変わり体が入れ替わったとしても、人間の中の人格を変わらぬものとして認識している。そのように代々人間は移り変わっていっても、血統の中に息衝く人格と言えるようなものをひとつの霊格として見ておられる神様だと言うのは妥当な事だと言える。私が救われると言う場合、私個人の救いをイメージしているけれども、神様が人間を救うと言う神様にとっての意味は、堕落の血統を神の血統に復帰することを救いと言うのだろうし、個人が血統の流れこそが自分の本質だと感じ、個人の心魂が家族から氏族さらに民族を感情し、思考し、意志する心魂まで広がりを持つときに、神様が認識しておられる救い、本質の救いに近付いていくのだろう。マタイ伝22章32節に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」、、とある。無くなった者達であれば、神であった、という風に過去形にすべきところを現在形で話されている。その意味は血統に流れる霊格(私の造語です)を指しておられる為に、そういう言い方になるのだと思う。新約の救いは霊的なものに限られ、私が救われても子供は新たにイエス様に帰依する信仰を本人が持たない限り救われない。親が罪を許されても子供は相変わらず原罪を持って生まれてくる。成約の救いは霊肉の救いであって祝福の子女には原罪が無い。要するに霊肉の救いとは血統の救いであり、御父様がもたらす救いの完成は血統に流れるものの救い、過去(先祖)現在(私)未来(子供、子孫)に渡る救いであるはずだ。そういう意味で新約の救いと比べてみると、祝福を戴いたことが天宙的価値であることがわかる。

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