2011年11月26日土曜日

今日の想い 376

御父様は真の御父様であり、御父様の愛は真の愛だ。その言葉は我々の仮定の言葉ではなく、私の真の親である御父様の宣言であり、それは神様が、この世の神サタンが、天宙が認めた宣言だ。その宣言ゆえに私は必ず救われる。確かに犯してはならない天法がありながら、図らずも自分の弱さゆえに厳しく言い含められた約束事を破ってしまうこともあるかも知れない。しかしだからと言って私の救いを断念されるものではない。み言葉を律法的に受け取り信仰上の取り決めを一義的なものとして私や周囲に当てはめ、救いに与る者外れる者と振り分けられる訳ではない。裁かれることで解決を見ない、私自身の問題、家庭の問題、二世の問題、教会の問題がある。溜息をつかざるを得ない現実が、積もり積もって山のようにある。どれ程み言葉はその理想を高く掲げていたとしても、問題が山積する現実の方が存在感があるというのが偽らざる我々の気分だろう。しかしそれらの問題が全て解決されてやがては全く問題のない世界が訪れるだろうか。さらに問題が解決されて気分が良ければ救われ、問題に振り回されて不快であれば救われないと言うことでもないはずだ。今は問題として認識されないものの中にも解決すべき課題があるはずなのに、それに対しては気分は不感症だ。律法的取り決めや信仰的快不快の気分或いは信仰的善悪感情といったものが食口の心魂の多くを占め、却ってそれが良心を見えないものにしている場合が往々にしてあると思う。旧約の律法に反したからイエス様は受け入れられなかった。新約的気分や雰囲気を害する者だとして御父様は迫害を受けられた。私達の信仰内容が成約だと言いながら、旧約的な信仰観、新約的な信仰観、或いは雑多な信仰観に固まっていて、神様が直接に働かれるはずの良心を見失ってはいないだろうか。良心が思考の対象としての観念ではなく実在であるように、真の愛も思考の対象としての観念ではなく実在だ。良心の痛みや喜びを現実として生き、真の愛が流れ込み満たされるのを現実として感じる私であってこそ、御父様の息子娘だと実感できる。

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