2011年11月16日水曜日

今日の想い 372

私達は御父様の恨(ハン)を胸の内に抱えており、涙に浸した魂がその在り様としてある。笑っていても笑いきれず、喜んでいてもどこか喜びきれず、御父様がそうであるように、悲しいほどに犠牲を差し出そうとする。どれほど犠牲を供えてもまだ足りないと思うし、全ての非の原因が自分にあるとし責任を引き取ろうとする。誰かに押さえつけられてそうあるのではなく、御父様の息子であり娘だからそうならざるを得ないのだろう。だから、私たちはどこまでもどこまでも謙虚であろうとし、どこまでもどこまでも信じて疑おうとは思わない。そしてそれは、どこまでもどこまでも悲しく、どこまでもどこまでも切ない。カルト扱いもされ、洗脳されて気でも振れたように見られてきたし、普通と違うと言うだけで、非現実的な理想世界を目指しているというだけで距離を置かれてきた。周囲の環境も変わってきて、一時のあからさまな非難や中傷もなくなったけれど、それでも当時の罵声が時々思い出されて鈍い響きを放ち、胸の内の傷跡として残っていて痛みを覚える。どれほどスマートな社会人を装っても、御父様を慕い侍る路程で相続された心情は胸の奥底で息衝いている。どれほどこの世に迎合しようと試みても、どれほど教会から距離を置きみ言葉や御父様を否定したとしても、植えつけられた御父様の心情は胸のうちに息衝いていて、どう回り道しても結局は御父様の胸のうちに帰らざるを得ないだろう。そうして御父様を想って涙を流さざるを得ないだろう。それが統一食口の在り様であり故郷だ。御父様が涙の御方であり、統一教会は涙の教会だ。昔は教会の玄関を潜っただけで、胸が締め付けられる想いに教会が満たされているのを感じることができた。もし教会に涙が乾いて久しいと言うなら、御父様の心情が備わっている教会とは言えないだろう。教会がそうであるように統一食口に於いても、彼らに出会うだけで訳も分からず共感してしまい、切なくも涙が自然と流れてしまうと言わしめるような存在であるべきだ。御父様にお会いすれば涙は自ずと流れてくる。御父様の在り様そのものが涙の御方だと言うことが出来る。十六歳の御父様の詩、栄光の冠を声にしてゆっくり読み進めると、私はどうにも心苦しくなる。何処までもどこまでも悲しく、どこまでもどこまでも切なくなってくる。

0 件のコメント: