2011年11月8日火曜日
今日の想い 371
窓越しにいろんな家の中を覗き込めば、入ってみたい衝動に駆られるだろう。敷き詰められた絨毯の柔らかさに触れてもみたいだろう。整えられた調度品の引き出しのひとつひとつに、隠されて息を潜めた歓びがしまわれている。その取っ手をつまんで優しく引き出すと、まだ見ぬ笑みが隙間からこぼれて溢れだすはずだ。見回していると奥の部屋への扉も目につく。私が手をかけて開けてくれるのを静かにじっと待っているようだ。家が何を象徴しているかは敢えて言う必要もない。目ざとく周囲の家々を観察しながら、窓が開いていれば覗き込もうとし、隙あれば入ってみようとも思う。或る者は美味しいところだけを摘まんではまた別の家を品定めしている。この鍵でどんな家にでも入っていける、そう思っている。確かにそうかも知れないが、侵入したつもりが実は頬張られていて、毒牙の顎に喰われてしまうことを知らない。毒牙に噛まれながら甘い陶酔のうちにその毒はまわっていく。私と言う霊の存在の破滅がその先にある。家々を渡り歩きながらこの世の生を謳歌しているようだけれども、その裏側に潜む暗く深い落とし穴を知らずにいる。ルーシェルがこの世の王、この感覚世界の統治者になったという意味は、肉的五感の歓びを最上のものとしたということだ。感覚至上主義を蔓延させることで霊の言い分を意識の隅に追いやってしまった。人間を精神(霊)の存在から感覚に仕える感覚存在に貶めてしまった。感覚存在は感覚的歓びを追い求める。あらゆる家に入りながらひたすら感覚を刺激するものを口にしようとする。口にしながら霊的には逆に口にされている。ひと時は兄弟達も、この内なる感覚衝動に翻弄される時期があったけれど、既に峠は越えている。ルーシェルが神様の前に跪き悔い改めたことの地上的な意味は、この感覚衝動を主管できる霊的力を受け取ることができると言うことだ。しかし私達が今直面していることは、思考に働きかけてきた別の悪魔の試練を受けているという問題だ。感覚衝動は罪の意識に直接的に関わるので分かりやすいけれど、思考に働くものを分別しようとするなら、み言葉の本当の力を受け取らなければならない。しかし、み言葉に宿る、思考を超えた神霊に至った時、私達の霊的視界はその高みから大きく広がるだろう。それは私という存在が霊的な進化を見せたということだ。
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