2011年11月14日月曜日

散り落ちる枯葉を見ながら

晩秋の冷たい風に煽られて枯葉が舞い落ちる。灰色の曇り空を背景に枯葉が舞うのを眺めながら、心躍る気分になることはないだろう。死期を間近に控えた諦めにも似て、残り少ない日々を散り行く枯葉のひとつひとつに重ね合わせている。その感情に引き摺られ、どこまでも落ち込むなら、私は感情に主管されて揺れ動く魂の存在以上にはなり得ない。個人に於いても、全体に於いても、多くの大小の問題が感情を波打たせ、冷たい風雨となって吹き荒れる。枝を大きく揺さぶれば、この手を放そうかどうしようかと迷っていた葉達はひとたまりもないだろう。感情気分に抗うことなく散り落ちてゆく。勿論散り落ちて肥やしにはなるけれども、霊の存在でありながら魂の肥やしに留め於かれれば、私の中に霊の花が咲くのを直接的に体験することは無い。霊の花が咲かなければ、人間存在としての歓びの極致を味わうことも無いだろう。何代かを経ながら間接的な関わりに甘んじるのを待つことになる。キリスト教には殉教の歴史がある。彼らは自分の生命を軽んじたのではない。キリストとの内的出会いを為し、自分の生命を供えても代え難い、霊の花が咲き霊の実りを収穫できることを知っていた。殉教の瞬間、痛みに顔が歪み苦痛に身悶えしたのではなく、神霊を受け取り霊の花を見事に咲かせた歓びに咽んだ。殉教だけが尊いと言っているのではなく、生きるにしろ死ぬにしろ、心魂を超えた高次の霊、精神の高みの位置を視界に捕えて、心魂を導き行動すれば、私は霊の花、真の愛の花として咲くことができる。堕落とは関係の無い根源が心魂を纏い肉を纏っておられるのが御父様だ。私が御父様にしっかりと接木されれば創造本性の花が咲く。花も咲かせず実も実らせず、散り落ちて存在を確定されずには霊界に留まることすら難儀だろう。内的霊的無知が私と言う存在を消し去ろうとしている。わからないなら下手に考え判断を迫る必要は無い。ただただ、御父様に帰依し、御父様にしがみ付いて行けばいい。御父様に繋がっている手を放すも握り締めるも、接木する私の意志であって、御父様がその手を払いのけられることはない。親が子供の手を放すまいとして握り締めこそすれ、払いのけられることなどありえない。枯葉が舞い落ちるのは、その表面的に纏った物質という被いだけであり、その実りとしての霊的本質は天に昇っている。落葉する季節に、山の高みから山野を見渡せば、木々の精霊が天に昇っていくのを見渡せる。

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