2011年11月22日火曜日

エロヒム

私が私であるという自我意識は、一体いつから目覚めたのだろうか。幼少の記憶を更に遡っていくと、私と言う体は存在しているはずなのに、記憶に留められない自我意識にとって暗黒の期間がある。人によってどこまで遡れるかはまちまちだけれども、一歳二歳の記憶を保持している人はいないだろう。生まれた時や乳を吸っていた頃の自分を親から伝え聞いて、間接的に私という存在があったと認識しているだけであって、自我意識が目覚めていた自分を生きた訳ではない。朝起きるときに、眠っている状態からまどろんでいる状態を経て、次第に意識が明るくなっていって完全な目覚めの状態になる。同じように自我意識も生まれる時には眠っている状態であって、それからまどろんでいる状態を経て次第に自我意識は明るくなっていき完全に目覚めの状態になる。人間がそうであるなら人間を御姿の通りに創造された神様も、そういう過程を経られたと仮定することができるのだろうか。生まれてから自我意識の目覚めまで、自我意識が眠った状態であっても乳を吸う行動もするし泣きも笑いもする。肉体は動いているし心魂も活動している。ただ生まれて間もない頃は肉体も魂も統一的には連動していない。自我意識が目覚めるに従って、肉体と心魂が自我意識に貫かれる形で統一的に連動していく。人間が時間と共に進化していく過程を見るように、神様に於いても進化発展していく過程があったと言うことができる。聖書の創世記に我々の形に我々にかたどってと記されているように、そこでは複数形の神様として記されているのに、創造を終えられて主なる神という表現が出てくる。それを私の心魂の深いところで受け取ると、仮定の域を脱しないとしても、人間が自我意識に目覚めた人間に成長すると同じ、私はあってあるものと語られる主なる神様が現れたと捉えられる。(ちなみに、日本語訳の聖書には創世記に神と訳されているが、原書にはエロヒム(神々)という複数形が用いられ、主なる神はヤハウェという一人称で記されている。)御父様が最近夜の神様昼の神様という御話をよくされるが、夜の神様が創造以前の神様であり、昼の神様が創造を始められた神様だというように説明を受けているが、同じ神様であるなら夜を過ごされる神様であり昼を過ごされる神様という表現であれば納得するけれども、夜の神様昼の神様と別の存在のように思える表現にはエロヒムとヤハウェという関係を表されておられるのだろうかと勘ぐりにも近いことを考えている。

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