2011年11月15日火曜日

環境的要件

外に出てしまった兄弟も問題はあるが、内に居て動こうとしない兄弟達にも問題はある。外に出て行った兄弟達に批判的な感情を持っているとするなら、自分は批判を受ける必要のない抱き抱えられた内にいると思っている。彼らは愛されていない立場、存在を否定された立場であり、自分は愛されている立場、存在を肯定された立場に置いている。批判的言葉と言わずに、敢えて批判的感情としたことを強調して置きたい。教会の内に居る兄弟達は、このみ言葉にふれ御父様に出会えたことを喜んでいる。祝福を戴いたことを喜んでいる。祝福家庭として出発したことを喜んでいる。祝福子女を与えられたことを喜んでいる。先祖を解怨して戴き、先祖祝福を戴いたことを喜んでいる。喜びの感情は確かに大切だ。しかし問題は喜んで完結させて、それで終えてしまっていることにある。本当はそこが出発点でありその戴いた種から実りを収穫するべきなのに、種を戴いたまま何もせずに喜んでいる。種を握りしめたまま、その果実をいまかいまかと待ち構えているだけだ。種は種であって引換券ではない。それを天国の門で差し出せば、自動的に天国に入れてもらえる訳ではない。霊界の協助を一方的に期待し待ち構えているけれど、そんな態度で霊界の協助を得られると思わない方がいい。種には畑という環境的要件が必要とされる。祝福という種が成長し実りをもたらす環境的要件は私自信だ。私がどれだけ内的霊的に耕されているか、必要な内的肥料や内的水分をしっかり供給できているかを問われている。霊的な協助の話をすれば、先ず私の思考を組み立てる概念、受け取る五感からの感覚内容、全てに於いて唯物的なものが浸透している。要するに物を物としてしか見ていない。御父様は手の届く物すべてを神聖なものと捉えなさいと話されるように、体の背後に心があるようにその物の背後に神聖な霊が存在していて、常に背後にある霊的なものを見届け感じ取ろうとしなければならない。勿論相手が人であれば尚更のことだ。また私の中に湧きおこる感情のひとつひとつも、その背後にある働き、霊の流れを見届ける訓練をしていけば、霊的なものを感じ取れる感受体を備えることができる。それは個体的な祝福の環境要件だけれども、それを土台としながら家庭には家庭の環境的要件、氏族には氏族の環境的要件、国には国の祝福を育てる環境的要件が必要とされる。母の国として祝福を戴いて、その国家的祝福の種を成長させ実らせる為には、国の為に犠牲を供えた多くの霊達の協助が必要なのは言うまでもない。ではその協助の為に霊達が再臨する国家的な内的霊的環境的要件を耕す為に、地上に於いて祝福中心家庭がどれほど中心的役割を為しているだろうか。戴いたもので完結させようとする乞食意識が、教会の内にいる兄弟達にも蔓延している。国を愛し、国を憂い、御国の為にという想いが兄弟達の中に燃えているだろうか。国家を代表して搾り取ってでも献金してきた、その味わってきた感情内容をもって日本の国への想いに育て上げずに、教会への恨みに貶めるなら、御父様の御心情を本当の意味で理解してはいないだろう。

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