2011年11月7日月曜日

信仰を考える

貴方達は騙されて踊らされた被害者だと言われ、そうだ私達は騙されて踊らされた被害者だと認めるとする。では被害者かどうかの真偽は別として、私が認める以上その間の信じていた私は何だったのか。信じていた私が将来に信じない私を予測して信じていた訳ではないだろう。被害者だと認めている現在の私が将来的にも同じ認識に立つことを信じているなら、騙されていたその間に信じていた私が変わった事実をどう納得するのか。要するに信じていた私を否定するなら、私という存在自体を信じることができない存在と断定しなければならない。所詮私は何も信じないし私という存在を否定した存在、そんな存在はあり得るのだろうか。実は反対論者が口にする信じるとか信じないとかは極めて表面的気分的なもので、自分の存在を問う信仰という深みに至らない者達の軽口に過ぎない。信仰を問う場合、自分の存在を問うに等しい重さがある。私という存在を消え失せない絶対的なものとするには、絶対的な信仰が要求される。絶対信仰という言葉の本質を見るなら、何が何でも信じますと言うのとは根本的に違う、私という存在の是非に関わっていることが見えてくる。かつての表面的気分的な信仰と思っていたものから、本来の信仰と呼ばれる深みに立ち入ることを赦されたから、絶対信仰という言葉が私達に与えられたと捉えるべきで、私達は今、様々な内外の問題を受けて過去にないほどの問いに溢れながら、絶対信仰の領域に入って行こうとしている。反対論者の言葉に接して兄弟たちの中に揺れ動くものが出てくることを心配する必要はなく、彼らの言葉も含めてあらゆる問いを自分に投げかけなければ絶対信仰には至らない。

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