2011年11月5日土曜日
立ち止りながら
原理として示された天宙の真理の骨組みを私達は学ぶことで、私達の信仰の基礎としている。信仰生活の中で、真理として受け取った骨組みに感情部分を肉付けしながら、信仰生命を成長させていく。しかし私の原理に対する理解が正しいのかどうかが問題になる。即ち骨組みが正しくなされて更に強度を増していってこそ感情部分も正しく肉付けされていくけれども、基礎が狂っていると信仰は歪になるし成長も見込めない。信仰生活の中で様々な信仰感情を味わい信仰条件として取られながら、内的霊的肉付けが為されていくと共に骨組みの検証がなされ組み替えられ強度が増し加えられていく。何度も何度も信仰の原点に立ち返らされ、骨髄の中で重生された核としての私を確認させられながら、肉を削り骨を軋ませる程の期間を通過して私の信仰生命は本物になっていく。逃げることも出来ない困難な状況の中で、意識圏で痛み苦しみ悲しみに喘いでいるうちにも、無意識圏の私の根源では新生の為の霊的手術が為されている。痛み苦しみ悲しみは誰であっても、内的に成長していようがいまいが、やはり痛み苦しみ悲しみに違いはないけれども、これを通過することで私はより本当の自分に生まれ変わり成長できると思えれば甘受しようとする意志が働く。苦労困難が大きければ大きいほど、痛み苦しみ悲しみが深ければ深いほど、大きくて深いマイナスの位置に比例する恩恵的プラスが引き寄せられるのは天宙の真理だ。日本の食口を愛される御父様は、お母様に期待されているように母の国の食口に期待されておられる。マイナス感情の深みをどれほど掘り下げても、それでも日本の食口は甘受できると信頼しておられる。その信頼こそが私達の誇りであり力でもある。御父様が地獄の底を通過されたのであれば、同じ事情圏環境圏を私も通過しますと言えてこそ、御父様の心情を占領できる。多くの食口が今、立ち止っている。D-DAYを目前にして立ち止っている。立ち止まること自体を批難されるべきではないだろう。立ち止まることが必要だから立ち止っている。今ほど兄弟達が自分の内面にも外界に対しても、そして内部にも外部にも、問いを投げかけた時はなかっただろう。しかし立ち止って横的な事情圏環境圏を見渡すだけで結論を急ぐのではなく、訓読もし瞑想もし、祈りもして熟考もしながら、縦的な認識を深めて欲しい。心魂に於いて、さらに霊の深みに於いて、御父様への帰依や献身を通して御父様から受け取ったものが必ずあるはずだ。どうにも否定することができない絡み合った父子の因縁があるはずだ。
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