2012年5月9日水曜日

良心を考える

霊と魂を混同しているように、良心と道徳心も混同している。良心は良神と言えるほどに霊に根ざしているけれど、道徳心は魂の揺らぐままに顔色を変える、言わば良心のような気分だ。モーセが戴いた戒めに人を殺すなとあるけれど、モーセ自身がエジプト人を殺していて、出発の為の摂理とされている。姦淫するなと戒めにあるにも関わらず、タマルもマリアも姦淫することで摂理に応えている。モーセも、タマルもマリアも、そこに良心の声を聞き、良心の判断はあっただろうかと問うてみるべきだ。切実な神様の声に聴き従うことが彼らにとっての良心であり、そこは通常の道徳的な気分を超えている。私達は切実な神様の声を直接に聞いてもいないだろうし、神様の切実さがわからないでいる。反道徳的な行動を取りたいとは誰も思わないが、切実な神様の声を本当に聞く者は、願いに応える為に反道徳的な行動も取らざるを得ない場合があるはずだ。私の道徳心がどう判断しようが、御父様こそが直接に神様の事情を知り、心情を受け止め、願いを示されていると言う絶対信仰こそが、私達の良心に繋がっていると言えるだろう。しかし御父様が良心と言われる場合、良心という普通の言葉で認識される良心とは明らかに異なるものがある。神様に直接に通ずる、御父様が言われるところの良心が既に我々に立っているなら、どうして私達に絶対信仰が必要だろうか。良心は神様にまさるから良心に従いなさいと言うみ言葉を捕らえて、私の良心は御父様の方向性とは異なりますから私は私の良心に従いますと真顔で言えるだろうか。私達は未だ心と体が戦う存在であり、ひとつになった位置で霊に根ざした良心が立ってはいないし、切実な神様の声を直接には受け取れない。良心という言葉を持ち出す場合、絶対信仰の上でなければ語ることはできない。