2012年5月22日火曜日

今日の想い 406

誰が背負うでもない、私だからこそ背負わねばならないものがある。私が私として生まれた理由でもあるだろうし、私が私としての人生を送る理由でもあるだろう。重荷を背負うて歩むという人生気分がそこにある。他との比較で自分を見つめれば更にそうだろうし、そこから生じる感情に委ねれば、大概のところは悲観的人生気分に向いてしまう。背負わされたという以上、重荷として捉えていることになるが、それは私は全体と分け隔てられた小さな個にすぎないという気分からそう思えるのであって、全体と私は愛で結ばれてひとつであり不可分の関係だという視点に立つなら、背負わされたのではなく全体から頼られ戴いたということになる。背負わされている認識から戴いている認識に変わることができれば、私の中で今までの私の天地が逆になったと言えるだろう。宗教の使命は、個から家庭、家庭から氏族と言うふうに、個から全体へ向かう私という認識を啓発してきたと言えるはずだ。御父様が勝利されたように、聖人の基準まで私という認識を啓発すれば、堕落した世界の天地を逆にしたと言えるし、聖子の基準まで私という認識を啓発すれば、堕落した天宙全てを逆にしたと言えるだろう。私は、或る悲観的運命を背負わされて生まれたのではなく、宇宙全体から願われ頼られて使命的任務を戴いてこの地上に生まれた。便宜上そのように認識するのではなく、その認識こそが正しいはずだ。しかしそのように認識を転換したら人生が容易になるというものではない。苦しくもあり辛くもある人生路程には何ら変わりは無いだろう。しかし人生に恨みを抱くのではなく、苦労の耐えない人生でさえも感謝できる自分をきっと見出せるはずだ。実はその感謝を供えたとき、神様の心情に触れるのであり、神様の涙が私に滝のように流れ込んでくる。そんな体験を何度も何度もしていれば、神様はより近い存在になり、どれほど犠牲の歩みであっても、神様の涙を味わったこの胸が愛の虜となって御父様からは離れられない。だから統一食口は神様の心情を掴むのであり、神様の心情を掴んだ食口は強い。