2012年5月25日金曜日

今日の想い 407

アメリカは訴訟社会であり、あらぬところから槍を突き付けられる場合も決して珍しくない。勝敗結果を考えず感情に任せて、取り敢えず訴えてしまうのであり、また訴えることに関しては何らの制限もない。こちらとしては当然の言い分として、焦げ付いた手形の返却を要求しているのに、相手方は逆手を取って、手形自体が無効だと言いがかりをつけ先手でこちらを訴える。全く道理に合わないことが自分の身に起こり、暫く呆気に取られてものも言えないが、訴えられた以上放って置くことはできない。裁判という公的第三者を取り込んでの複雑なプロセスを踏んでいくことになる。複雑で専門的な法的用語が三者間のツールであり、原告被告両者の闘争媒体でもある。英語ですら疎い者が、法的用語に翻弄されて気押されない訳がないだろう。しかし相手方はそこを突いて狙っている。召喚状を一度ならず二度までも送りつけ、法的用語を駆使して語気の強さを文面に表し、威嚇に全く余念がない。相手方が弁護士を立てているように、勿論こちらも弁護士を立てざるを得ないのだが、勝敗は弁護士の仕事に大きくかかっている。マグドナルドのコーヒー裁判やOJ裁判を見ての通り、弁護士の技量に掛っているところがまことに大きい。しかし、忘れてはならないことは主体はあくまで原告被告の両者であり弁護士ではないと言うことだ。どんな弁護士を使うかは主体の判断にあり、そしてどんなに弁護士に技量が備わっていても、全てを弁護士に丸投げして任せ、気を許してしまえば勝つ訴訟も勝てなくなる。勝つと言う責任感情を一瞬の気の緩みも無く持ち続けることだ。内的霊的に勝てば必ず勝つ。勝てば霊界を証し出来るだろう。今まで、我々の責任感情の薄さがどれだけの摂理の敗因をもたらしたことか。ビジネスをやらせても赤字を出し続けることに何の負債も悔しさも抱いてはいない。勿論口では申し訳ないと言い、そう思っているつもりでいる。しかし残念ながら本人もまわりも責任とは程遠い甘えがあることが分かってはいない。痛みとしての責任感情が湧いていない。ひとつになって勝利するのではなく、ひとつになって妥協し甘えてきた。依頼人の切実さや覚悟が弁護士に伝わってこそ初めて戦いの土俵にあがることになる。訴えたことは無いが今まで何度か訴えられたことはある。訴えられて初めて、この、打たれるという内的霊的実感を経験する。アメリカで外的な苦労も打たれることもそうないが、この精神的に打たれることを通して、私は御父様の代身だという誇らしさが内面に充満する。