2012年5月31日木曜日

今日の想い 412

人に感動を与え、さらにその人を動かすほどのものとは一体何だろうか。普通は愛という言葉が使われるのだろうけれど、ここで愛という言葉を簡単に使って分かったような気持ちになってはいけない。愛という言葉の本当の意味を知らずに、愛という言葉を使うことだけで満足(妥協)してしまう場合が多い。愛という言葉の本当の意味を知ろうとするなら、その逆の愛せない自分を認識し、愛する自分を取り戻すときその対比でこそ理解していくことができる。許しと言う言葉は、裁き裁かれる位置に立つとき初めて許しの言葉の意味を知るようになる。罪の醜さが分からなければ許しの尊さはわからない。本当の強さは、自分の弱さに血反吐を吐くほどの嫌悪感を覚えながら、その過程で強さを受け取ろうとする。その意味で極と極は通ずる。人に感動を覚えさせ自然屈服して動かす為には、相手が愛するに足ると踏んで何かしてあげても動かないのであって、先ずどう転んでもこの人だけは愛せない、その相手の出現こそ感動を与え動かすことができる。どうしても愛せない位置でそれでも愛する意志を曲げなければ、その意志は本当の愛を関係性にもたらすことができるだろう。私達は犠牲をはらう立場に置かれて愛されない位置を甘受してきた。さらに、どんなに犠牲を払いどんなに苦労しても、まだ足りませんと言えるのが統一食口だ。愛されない位置でこそ最も愛される意味を探ろうとし、愛の本質を受け取れるようになる。この逆説的な意味するところを理解できなければ、御父様の心情圏の中心に辿り着くことはできない。御父様の息子娘であると断言できる、そういう切っても切れない父子の因縁(むすびつき)を築きたいという想い。その想いや衝動の力の強さは、私がより否定され、より犠牲となり、より苦労することで勝ち得たものではないだろうか。愛しなさいという言葉は、投げかける相手の立場で同じ愛せない者を愛した、或いはせめてその同じ愛せない者を愛そうとする内的戦いにある者が口にできるのであって、関心もないしどうでもいいという言葉や無視してしまえという言葉と同じようにしか聞こえない、投げやりで、愛という言葉を貶められているような愛という言葉の使い方を見ることが時折あって、私自身はどうなのかと内面の声に問われて黙り込むことがある。