2012年5月10日木曜日

今日の想い 401

誰かがあらん限りの知恵を使って、今起こっていることの原理的解釈を並べても、所詮堕落人間の堕落的思考の範囲から抜け出すことは出来ない。それらは悲劇的なほど自分の論理に酔っている。酔いがまわって御心情を配慮する感情部分すら消え失せている。唯御一人、御父様こそが説明できる、或いは正しいかどうかを判断されるのであって、例えそれが筋が通っているようでも、辻褄が合っているようでも、それが正しいとは言えない。み言葉にしても、み言葉は正しくても受け取った認識が本当に正しいかどうかは決定されず、常に問い続け尋ね続ける必要があるのに、ましてや誰かの取って付けた原理的解釈など精査する意味も無い。講論604頁全てを諳んじることができるほどに問い続け尋ね続けていると言うのであれば、少しは心情の香りも伺えるものだとは思うが、ただ原理用語を使ったそれらの論理は目を背けたくなるほど気分が悪くなる。それよりは、まだ笑える分だけ明らかな誹謗中傷の方が私には心地よい。これらの解釈に対して反論を持ち出すつもりは全く無い。水掛け論になることは分かりきっているし、そんな暇もない。兄弟達に備えて欲しいのはそれが生きた思考なのか死んだ思考なのかを見極める目であり、示す以上そこに意図があり意志があるはずだが、その意図なり意志が御父様の願いと同じなのかどうか、さらにそれ自体に御心情を尋ねる想いが流れていて受け取れるかどうか、そういった本質を見る感性にも目覚めて欲しい。前にも述べたように、論理的な知がみ言葉への入り口ではあるけれども、かと言って現時点での御父様への自分の認識、み言葉への認識が絶対的に正しいと判断する私が基準ではなく、基準は常に御父様にあるという絶対信仰を揺らしてはならない。自分の認識を基準に置いているから、自分の好いように御父様もみ言葉も判断してしまう。論理をもって巧妙に操ろうとする狡猾さはマムシの子を証しする何物でもないが、御父様の胸に刺さった釘は見て見ぬふりをするばかりか、さらに深く打ち込んでいる。