2012年5月6日日曜日

今日の想い 400

宣戦布告されて怖気つけば、その時点で既にサタンに屈服したことになる。兎に角立ち向かう姿勢を見せることが祝福で戴いた内なる神霊が生き残るためには必要だ。勿論感情に於いてはいろんな気分が錯綜する。原罪を抜かれて根無し草となった堕落性が、心魂に苦味を振りまき、堕落的感情を煽って、恐れで心を凝り固めようとする。しかし、この一部の感情がフリーズしたとしても、私の中の御父様に繋がる意志は明確だ。その意志自体には少しの揺らぎも無い。この頭(思考)をどう操られようとも、この胸(感情)をどう弄ばれようとも、私の意志に揺るぎは無い。それは霊界に重心を置いてこそ言える言葉だ。人間は明日のことが心配だし、更に近い将来に起こり得ることも心配で、年を取ると体が動かなくなってからのことも心配だ。しかし全ての思い患いは肉体が存在している前提でのことであり、死のこと、霊界でのことを足場にして考えてはいないし感情してはいない。この地上生活は永世する霊界生活からすればほんの一瞬のことだ。一瞬であるけれども瞬きする間の地上生活をどう送るかで永世する霊界状況、霊界環境が全く変わってくる。地上生活の一瞬の感謝の想いが何千倍もの感謝される環境をつくる。逆に一瞬の恨みが何千倍もの恨まれる状況をつくる。あの世にいって気付いても、永遠の嘆息の日々の何の解決にもならないが、この世の気付きと行動をすれば一瞬で解かれる。悪辣非道な人生の果てに死を持って償うその場で、その最後の一瞬にイエス様を受け入れた右の強盗を思い出すべきだ。私は御父様の前に出て報告できる実績は何もない。50も過ぎればいつ死んでもおかしくないだろう。霊界に重心を置いて考えれば、何の実績も、精誠を供えた証しもないまま死を迎えることを思うと、死は逆の意味で恨めしい。機会が与えられるなら、右の強盗のように、張付けられた逃げ場のない場所に追い遣られることを願ってでも、御父様に精誠を供える自分を生きたい。