2012年5月17日木曜日

今日の想い 404

み言葉は神霊そのものであり、み言葉を表す文字は神霊の体だと言える。人の表情や行動態度を通してその人の内的本質を知ることができると思っているし、探ろうとするのを不思議だとは誰も思わない。それは納得もし、探る意志も差し出すのに、み言葉が表された文字からみ言葉の本質、神霊を探ろうとはせず受け取らないでいる。聖書をひも解き文字を追いながら神霊を探ろうともしなかっただろうし、神霊に触れて魂が揺さぶられたこともないに違いない。そんな経験も体験もない者が、み言葉をよく考察もせず、書かれていることの本当の意味を認識しようという意志を放棄し、そして拙い自分流の間違った認識を正当化する。それは、み言葉を表す文字は他の文字と同じ死んだ文字であり、生きた文字にはなり得ないと言い張っていると言うことだ。み言葉にすら唯物的認識という死の認識を宛がえている。一度は信仰の苗を植えながらそののち翻ってしまった、彼らの多くは感情人間だ。歩みの途上で何らかの感情を害したか恨みをもったかで、信仰を育てる心魂の土壌に毒を蒔いている。堕落的感情に主管されて、み言葉への神霊を探る意志を放棄している。彼らは、胸に渦巻く感情が自分という存在の全てだと思い込まされている。感情を含んだ心魂の原因領域まで踏み込まなければ、堕落的な在り様から脱することはできない。感情に押される形で思考を働かしても、思考はどのようにでも感情の都合のいいように論理を展開してしまう。感情を超えて、心情を尋ねる統一食口ではなかったのか。私の感情をどれほど翻弄されても、胸をかきむしる想いに弄ばれても、それでも御父様を慕い御心情の一欠けらでも味わえることを喜びとする私達ではなかったのか。訓読を供えながら、めくるどの頁にも涙の後が窺えるほどでなければ、本当にみ言葉を訓読しているとは言えない。