2012年5月20日日曜日

言葉

人の望みはなんだろう。何を願って時を刻んでいるのだろう。人は誰でも言い続ける。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。、、、言い続けることで、幸せになりたい私であり続ける。幸せになりたい自分であり続けるけれども、幸せになれる自分はつかめない。幸せになりたいという呪文には、今の私が幸せではない恨みが込められている。呪文を何度も何度も唱えながら、幸せではない恨みを山のように積み上げている。みんな、恨みの山を重たそうに抱えながら人生をさまよっている。言葉に恨みが込められれば呪文であり、感謝が込められれば祈りになる。人はいとも簡単に言葉を吐き出している。どんな言葉にも想いが込められ、霊が込められる。簡単に吐き出した言葉に想いが、霊が乗って届く。人は息を吐き出しながら言葉にする。息を吸い込みながら言葉を受け取る。私の吐き出す言葉にはどんな想いが、どんな霊が込められているだろうか。言葉にすることにどれだけ意識を使い、神経を使っているだろうか。美辞麗句を並べ立てろとは言わない。どんな美辞麗句よりも、ただ一言の素直な言葉が美しい。論理をもって遣り込めろとは言わない。どんな理路整然とした論理より、ただ一言の覚悟の言葉が強い。親が子を想って、眠れぬ夜を幾夜も重ねて、子への凝縮した一言がどれほど重たいだろうか。それは月よりも重く、地球よりも重いと言えるはずだ。それこそが言葉の本当の意味だ。言葉を使えることが私が精神存在であることの証だが、私が真の愛の存在である為にはみ言葉で骨肉を築き上げなければならない。ただ吸収するのみならず、霊も肉もみ言葉で作られていると言えなければならない。そうすれば、吐く息さへも神霊に溢れる。私は言い続ける。感謝です。喜びです。希望です。、、、言い続けることで、感謝の、喜びの、希望の私であり続ける。私は祈り続ける。この痛みも感謝であり、この悲しみも喜びであり、そして痛みも悲しみも甘受できる私こそ希望だと、、。