2012年5月15日火曜日
悲観というお化けの正体を暴こう
応えるべき指示事項や、突き付けられた現実が、課題として目の前にある。どう対処したらいいのか溜息気分で眺めているけれども、更に、近い将来何を指示され、何が起こるのかという新たな課題への不安が視線の向こうに居座っている。それが大方の、特に日本の食口の心配や悲観に傾いた気分だろう。過去を見れば、この溜息気分や不安の領域までが結果として実現されてきた。それを、予想が的中したと見るか、或いは思い描く気分に合わせて現実化したと見るかだが、後者が正しいだろう。正しいと言うより、前者は受動的見地であり後者は能動的見地だと言った方がいい。私は日本で歩んでいた頃、他のどの兄弟よりも悲観の極みに立っていた。あらゆる悲観的状況を思い描いて、気分はこれ以上落ちることはないほどに落ち込んでいた。そしてその気分に沿う形で現実は現れてきた。私自身が運命に対する主管性を復帰する、即ち主体的位置に立つと言う場合、対象としての私が何に相対しているか、対する主体は何かを気付くことが先ず重要だ。人間は神様の対象として創造された。しかし堕落してしまったから対象存在として創造された人間はサタンの対象になってしまった。人間は何らかの対象存在とならざるを得ない。神を否定する者は神を否定するのみならず、別の何かを肯定している。別の何かを辿っていけばサタンに行き着く。私が悲観する場合、私は何の対象として相対しているか。神かサタンかという内的霊的に見届けることができない深みのことを本人が口にしたところで、それはあまり意味がないが、問題は悲観する気分の主体(正体)をはっきりと見届けることを意志し、その正体と戦うことだ。戦う正体とポイントを明確にしなければ戦いの土俵にすら立ってはいない。受動的な位置にしがみつけば常に不戦敗で負け続ける。誰よりも悲観した私が能動的な姿勢に変わるように、受動的な信仰姿勢の日本食口も能動的であるべきだ。それは体制としてのピラミッドを崩せと言っているのではなく、食口ひとりひとりが能動的信仰を確立することで、ピラミッドはより強固なものとなる。硬くなれば脆くなる強固ではなく、柔軟性を取り戻せば形態を変えながらも崩れない。それこそが一体化だ。信仰が揺れるだろうと情報を規制すれば、ピラミッドの外枠は体制を維持しているようでも内側から崩壊しかねない。悲観というお化けの正体を暴けば、運命は転換していく。