2012年5月2日水曜日

坊主地獄

以前、別府に寄った時に地獄めぐりをした。地獄にいながら地獄めぐりをするというこの矛盾。群れから外れまいとして、早足でめぐるツアー客の年配達は、何を思ってこの象徴的な地獄を見て回っていたのだろうか。まさかこの地上が既に地獄だとは思いもしないだろう。そのうちにお世話になるところだからと、そんな冗談を笑顔で口にしながら、しかし本当に地獄に行くとは誰も思っていない。数ある地獄のなかに坊主地獄がある。灰色の熱泥が膨れては弾け、膨れては弾けを絶え間なく永遠に繰り返している。坊主頭のように膨れるから坊主地獄なのだが、浮いては消え、また浮いては消える何千何万という思念を飽きることなく表象し続ける、そんな堕落的な心の様相をそのまま現わしているようで確かに地獄だと納得できる。取りとめのない思念は形になる前に容赦なく弾けて、決して球体となって浮かび上がることはない。思念を形成する心魂が重すぎるからだ。坊主地獄の熱泥もその密度の濃さから数秒を超えて形を留めることがないのと同じだ。堕落人間の心魂はあまりにも物質に浸透しすぎた。物質や地上的感覚に執着して偏り、本来精神と物質の架け橋となるべき心魂はその役目を果たしていない。精神性を地上にもたらし、もたらして地上で実ったものを精神の高みに届ける、そんな霊界と地上界の橋渡し的中心存在にはなっていない。昨日の上に今日があり、今日の上に明日がある。或いは過去の歴史の上に現在があり、現在の上に未来がある。さらに先祖をすべて遡って血に刻んだもの、清算したものの総体が私であり、私が血に刻むもの、清算するものを後孫が引き受けていく。時間の流れにも、歴史の流れにも、そして血の流れの中にも、坊主地獄を抜け出せる革命的な心魂に生まれ変わる役事が私のなかで行われている。惰性的心魂の大改革は、惰性的生活の打破が条件だ。