2012年5月2日水曜日

今日の想い 399

私はあらゆる誘惑に晒されている。目に心地よいものばかりを見ようとし、耳に心地よいものばかりを聞こうとし、触れたいものだけに触手を動かそうとする。あたかも時間を止めることができるかのように、一瞬の刹那の歓びを追い続ける。そのとき私は精神存在としての人間であることを忘れている。腹を満たす為だけの生に満足するように、心地よいものばかりに身を埋めることで満足したいという私がいる。あたかもその為に生を受けたかのように、感覚的なものを追い求め、幻だとは気付かない永遠の酔いを夢見ている。この地上は誘惑の地。感覚の背後に陥れる為の罠が、どれほどいたるところに仕掛けられていることか。そして人はいとも簡単に罠にかかる。罠にかけられてもそれに気付かず、知らないうちに数え切れない罠で心魂は捕らえられ、身動きできないでいる。そのうちに肉体は朽ちてしまい、その時初めて罠で雁字搦めになっていた自分に気付くが、時遅く身動きできないまま地獄の底まで転がり落ちて行く。この感覚世界は埋もれて酔うために周囲に存在するのではなく、主管し創造する為に肉体を預かり五感を預かっているはずだ。人間は堕落してしまって感覚世界に主管されているけれども、感覚世界に対する主管性を復帰し、創造性を復帰して精神性を注ぎ込むのが人間本来の務めだろう。精神存在から、感覚至上主義で感覚世界の誘惑の蜜をなめる存在に堕ちてしまった人間。堕落した罪の血流が私の身体にも流れていて、あらゆる誘惑に触手が反応する。イエス様の周りにいた弟子達でさえ、イエス様の尊い愛を受けとりながらそれに応えることができなかった。感覚世界の愛を撰んだ。イエス様の尊い愛は結果的に地に流されて、十字架への道を選択せざるをえなかった。生きた御父母様に侍る私はどうだろうか。御父様の愛を信じて、感覚世界の愛をきっぱりと切り捨てる私になっているだろうか。

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