2012年5月28日月曜日

今日の想い 411

以前、メシヤとしての真偽と記して随分波紋を呼んだようだけれども、自分の救いを人の判断に委ねたり、或いは人の救いを自分の意見で左右させることは違うだろうし、私と他との間で私の救いがどうこうなるものではなく、結果的に、私の救いは私と私のメシヤとの関係に集約される。あるブログで御父様を偽りのメシヤだと決め付け、有ること無いこと偽りのメシヤの理由としてどれ程あげつらっても、それを目にして受け入れて揺れるようであるなら、自分のメシヤ観が御父様に着いて行くほどには定まってはいないと言うことだ。他人のメシヤではなく、私のメシヤ、私を救ってくださる方が必要なのであって、他人がどう判断しようが私の救いとは関係が無い。他人の意見が気になるのは、メシヤをどうこう言う以前に、私は救いを必要としているのかどうかが先ず分かっていないからだ。救いもその言葉だけを取れば体の救いかも知れないし心の救いなのかも知れない。しかし霊肉の救いとなると、宗教的、更にキリスト教的背景も知識も感情も自分にないとなると、霊肉の救いの意味も実感も本当のところ湧かないだろう。本来の祝宴に招かれた者達ではない悲しさがそこにある。しかし罪の意味も、救いの意味も正しく理解して入教したのではなくても、信仰路程の中でこそ確立されていくものだと確信している。メシヤの真偽はさておき、教会に対して様々な判断を下し、それに対して今自分が声を上げることが善であると顔を上げる兄弟がいる。某グループに組する一部の人間だ。彼らの間違いは、御父様が良心といわれる良心を分かりもせず、自分が勝手に思う良心を立てて、判断をそれに委ねていることにある。教会や中心者が指示してきた事柄が、どれほど己の感情を傷つけるものであったとしても、たとえ社会的善悪判断に反するものだと決め付けるとしても、そういった教会に反する想いが優先される限りは良心の姿を装った恨みであり、その衝動が彼らを動かしていると見て取れる。彼らは御父様の救いを必要とはしていないようだ。善悪判断と決め付けに躍起になって、救いはどうでもいいのであり、御父様への帰依を諦めてしまっている。勿論救いは彼らひとりひとりと、それぞれの信じるメシヤとの関係であるから、結果的には私が関われる訳ではないけれど、私は私と私の御父様との因縁によって、彼らに対して戦う姿勢を辞すことはない。それはこの1012年の、私の御父様への帰依だ。どちらの言い分が正しいか間違っているかの土俵に自分を委ねる限りは、どうにでも解釈でき、如何様にも論理構成ができてケリは着かないのかも知れないが、自分の判断も思いも捨てて御父様に全てを委ねるのであれば、答えは自ずと見えてくる。教会側に立った者全てが御父様への絶対信仰、絶対服従に貫かれている、とは今の時点では言えない。これからも現状と同じ手段かどうかは別として、羊とヤギは分けられていくだろう。しかし某クループに組すれば明らかに救いの逆の経路を通らざるを得ないし、それは遠く厳しい第二、第三の荒野路程が彼らに待ち受けている。その覚悟が彼らにあるのなら、それもまた道かも知れないが、しかし彼らに覚悟があったとしても彼らの後孫さえも巻き込むことになるだろう。彼らはその覚悟もしていると言うのだろうか。御父様の語られ指示されることが御父様の本心ではないと、もし彼らの偽らざる本心がそう言うとするなら、いつの時点で誰の言葉で、御父様の指示と本心が乖離していると感じ、そう断言したのだろうか。それ以前は一致していたとするのは何をもって判断していたのだろうか。どちらにしてもそれは御父様への絶対信仰とは言えない。御父様と自分との間に、良心を装った別の何かの判断を介入させている。